1.はじめに
『古事記』景行段には倭建命が東征の途中に尾張国に立ち寄り、尾張国造の祖先である美夜受比売の家に行ったとする記事を載せていますが、『先代旧事本紀』国造本紀では天火明命の十世孫の小止与命が尾張国造を賜ったとされており、これは通説とは親子関係が逆転しているようなので、その真偽を含めて尾張氏と熱田神宮の主要摂社の奉斎氏族との関係を探っていこうと思います。
2.『新修名古屋市史』による尾張氏系譜批判と『熱田太神宮縁記』
『新修名古屋市史』によれば、『先代旧事本紀』天孫本紀の尾張氏系譜で、4世瀛津世襲(おきつよそ)が孝昭朝の大連(大臣)、7世武諸隅(たけもろずみ)も孝昭朝の大臣、13世尻綱根(しりつなね)が応神朝の大臣、14世の意乎已(おおい)が仁徳朝の大臣となっており、これは后妃伝承とともに尾張氏によって創作されたものと判断してよいと断定しています。
また、天孫本紀に尾張氏系譜が収められた事情は、物部氏が先祖を天皇系譜に結び付ける材料として尾張氏の伝承を利用したためと理解されるとしており、妥当な判断だと思います。
『日本書紀』の景行天皇段で宮簀媛は尾張氏の女として、また寛平2年(890年)の年紀を有する『熱田太神宮縁記』によれば、宮簀媛の父が乎止与命、母が真敷刀婢命(ましきとべのみこと)、兄が建稲種命(たけいなだねのみこと)となっていますが、天孫本紀の尾張氏系譜に従えば真敷刀婢命が尾張大印岐(印岐=稲置)の女です。
また、尾張大印岐の大は美称です。
3.上知我麻神社・下知我麻神社と奉斎氏族
尾張氏が奉斎していた熱田神宮の現在の祭神は熱田大神で、相殿神は天照大神、素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛、建稲種命ですが、熱田神宮の境内摂社である上知我麻神社や下知我麻神社は確かな情報 は無いものの、おおよそ次のような名称の変遷をたどっていったものと考えられます。
(1)上知我麻神社(祭神:乎止与命)
上知我麻社(平安時代)→源太夫社(鎌倉期)→源大夫社(江戸期)→現在
(2)下知我麻神社(祭神:真敷刀俾命)
下知我麻社(平安時代)→紀太夫社(鎌倉期)→紀大夫社(江戸期)→現在
一方、『平家物語』百二十句本の剣巻では倭建尊が尾張国松が小島の源太夫の娘岩戸姫と一夜の契りを結んだとあり、また剣を田作りの記太夫が田の中の杉原に置き、剣の光熱で杉が焼けて今の熱田の地名になり、岩戸姫・源太夫・記太夫が神として祭られたとの伝説を載せています。
松が小島とは松炬島(笠寺台地)のことであり、名古屋市南区本星崎町に鎮座する星宮社の境内社に上知我麻神社と下知我麻神社があることからも、熱田神宮の境内摂社の上知我麻神社・下知我麻神社の旧地が松炬島の千竃郷にあり、後に熱田の地に遷座されたものと思われます。
さて、『和名抄』の愛智郡千竃郷がどこに比定されるのかですが、江戸時代の山崎村、戸部村、桜村、新屋敷村が明治時代の一時期、千竃村であったことや、現在の国道1号線に千竃通の名前が残っていることからも、笠寺台地の北側が千竃郷と思われ、現在の岩戸町(岩戸姫の名残か)がかつての千竃村の北端にあることから、星宮社が笠寺台地の南端に位置することから関連付けるには若干の疑念はありますが、源太夫が住んでいたのは岩戸町付近であろうと推定されます。
追加の事項として、熱田神宮の正門(南門)付近にある境外摂社の松姤社の現在の祭神は宮簀媛ですが、松姤は松炬島の美しい女性を想像させる名前であり、元の祭神が岩戸姫であった場合には、上記の『平家物語』において3名が神として祭られたとする内容と合致し、松炬島から3神社が揃って熱田の地に遷座されたものと考えられます。
鎌倉幕府の御家人で、得宗家の被官でもあった千竃郷を本貫とする千竃氏は薩摩・川辺郡、屋久島、奄美大島などを支配し、室町時代に入ると薩摩の島津氏の配下に入ったとされているので、千竃氏が元の上知我麻社や下知我麻社の奉斎氏族で、千竃郷を離れるにあたり、先祖の祭祀を尾張氏に託した可能性が考えられます。
以上の事から、上知我麻神社と下知我麻神社の現在の祭神は『先代旧事本紀』天孫本紀の尾張氏系譜から借用したものであり、元の祭神からは変更されているのでしょう。
4.氷上姉子神社と奉斎氏族
名古屋市緑区大高町に鎮座する熱田神宮の境外摂社である氷上姉子神社の祭神は宮簀媛命ですが、この神社の神主家は久米氏です。
『尾張群書系図部集(上)』(加藤國光編、続群書類従完成会、1997年)にはこの久米氏の系図が収められており、その内容は来目長を初代とし、11代には常見がみえ、「尾張姓祖建稲種命五世裔胤大海部直多与志連の後葉」の注記があり、また15代には乎幾与がみえ、「尾張国愛知郡大領外従五位下尾張宿祢乎己志の子」の注記がありますので、久米(来目)氏と尾張氏との姻戚関係がうかがえ、久米氏がずっと氷上姉子神社の奉斎氏族だったようです。
久米氏が元々は大和の橿原市久米町付近を本拠とする軍事氏族であったことや、『日本書紀』垂仁天皇5年条に来目の高宮に天皇・皇后が滞在していたとあり、27年条には来目邑に屯倉をたてたとあり、初期のヤマト王権において久米町付近は重要な位置を占めていたのでしょう。
『熱田太神宮縁記』(『愛知県史』資料編六)には、「日本武尊、尾張に還り向かひて、篠城邑に到る。食を進るの間、稲種公の傔従久米八腹、駿足を策ち、馳せ来たり、啓して曰く、「稲種公海に入りて没す」と。」とあり、建稲種命の配下に久米八腹なる人物がいたようです。
一方、元禄12年に作成された『熱田宮旧記』では久米直七拳脛の子、または兄弟の久米八甕は日本武尊東征時に膳夫として仕えたとありますが、『日本書紀』の景行天皇段では日本武尊の膳夫は七掬脛となっており、日本武尊に従った久米氏の人名に混乱がみられます。
また、尾張藩士の堀忘斎の撰になる『厚覧草』では、「熱田正縁記云、景行天皇四十一年、草薙剣氷上村に留る、其後宮簀媛、老後松炬島に社を建て納む。孝徳天皇大化二年尾張忠命等、託宣に依て愛知郡会崎機綾村に遷座なさしむ、則今の大宮是なり。熱田本記亦同し、右木下宇左衛門説。」とあり、軍事氏族の久米氏が所持していた草薙の剣が氷上姉子神社から千竃郷へ移動、さらに熱田神宮へと移動したということでしょう。
なお、久米氏の系図に美夜受比売(宮簀媛)は出てこないので、美夜受比売は久米氏の伝説的な姫の可能性があります。
久米氏の尾張における古代の居住地としては、氷上姉子神社と大高城址のほぼ中間地点に熱田神宮の末社(以前は氷上姉子神社の境外社)の朝苧社(あさおしゃ)があり、近くに弥生時代後期のものとみられる土師器、古墳時代から奈良時代にかけての須恵器などが出土している姥神遺跡(名古屋市緑区大高町字東姥神)があるので、この遺跡付近ではないかと考えられます。
ところで岩瀬文庫所蔵の氷上神主・久米長稲が江戸時代中期に作成した「氷上山之図」によれば、氷上大明神を中心として小祠の絵と共に、源大夫神、紀大夫神が祭られ、氷上元宮の敷地には右星宮、左星宮が祭られています。
また、氷上元宮の南には星宮山という山があり、左右の星宮はこの星宮山の名前から命名された可能性もありますが、先程の笠寺台地の星宮社や源太夫、記太夫を宮簀媛の縁者ということで、分祀して祭った可能性が考えられます。
なお、成海神社の境内には氷上源太夫社の小祠があるのですが、源太夫の本籍地は『平家物語』の記述を重視すれば笠寺台地だったのでしょう。
5.尾張氏の実態
尾張氏の実態については『日本古代の豪族と渡来人』(加藤謙吉著、雄山閣、2018年)に詳しいが、その概要は次のとおりです。
(1)尾張氏とは一系的な氏族集団ではなく、尾張国の各地を拠点とした様々な在地首長集団が連合して、対外的に「尾張」をウジ名とする同族集団を形成した可能性が高い。
(2)尾張氏とその同族には、中嶋郡や海部郡、春部郡、愛智郡の尾張氏が、また同族には甚目(はため・ひじめ)氏、高尾張氏、小治田氏がみえる。
(3)5世紀から6世紀にかけて愛知県春日井市の庄内川中流域に白山神社古墳、御旅所古墳、二子山古墳、春日山古墳などの味美古墳群を造営した春部郡の氏族グループの内、熱田台地に勢力を拡大して断夫山古墳、白鳥古墳、大須二子山古墳などを造営した愛智郡の氏族グループが尾張氏の中核となった。
(4)5世紀代に瑞穂台地に高田古墳、八幡山古墳、八高古墳などを築造した愛智郡の氏族グループは、熱田台地に勢力を拡大したグループと結びつき尾張氏という擬制的同族組織の中に組み込まれていったと想定することも可能である。
(5)尾張氏の中央進出時期は継体の即位の頃か、それ以降(安閑・宣化の時代)であろう。
ここで、そもそも上知我麻神社や下知我麻神社が熱田神宮の境内摂社であるということは、乎止与命や真敷刀婢命が瑞穂台地やさらにその先端に続く笠寺台地に進出した氏族グループに属する一族で、中世では千竃氏を称していたが、古代では尾張氏を称していたと考えることも的外れではないのかもしれません。

6.まとめ
尾張氏の中の熱田台地や瑞穂台地・笠寺台地に進出した2系統の氏族が、大和から移住してきた久米氏と結びついていった様子がうかがえますが、前掲書で加藤氏が「そもそもヤマトタケルがミヤズヒメと結ばれる『記紀』の話は、草薙剣を祭神とする熱田社の起源を説くことに本来の意味があり、(中略)時代的な整合性という立場からミヤズヒメを建稲種公(乎止与命の子)の妹とし、あわせて建稲種公がヤマトタケルの東征に同行するというストーリーを作り上げたものとみられる。」と指摘したことは重要なポイントですが、久米氏が尾張に移り住んだ背景として、当時からヤマト王権に尾張進出の意図があった思われるのですが、いかがでしょうか。
【追記:2024年1月18日】
1.本文の真敷刀婢命が尾張大印岐の(印岐=忌寸か)を(印岐=稲置)に見直しました。
以下はその補足です。
熱田神宮の境内摂社である上知我麻神社と下知我麻神社の祭神は夫婦ですが、随分離れた場所に配置されています。
つまり、下知我麻神社は本宮の敷地内にあり、上知我麻神社は別宮の八剣宮のさらに南に位置しています。
この摂社の配置だけから見れば、下知我麻神社の祭神である真敷刀俾命が地元の熱田の出身で、上知我麻神社の祭神である乎止与命が熱田ではなくて笠寺の出身と考えられます。
もしそうであれば、天孫本紀に真敷刀婢命が尾張大印岐の女と書かれていますが、天平宝字五年(七六一)二月二二日の奉写一切経所解案(正倉院文書)によると印伎部国代なる人物が記されており、また和気公氏系図の因支首の氏姓は「いなぎのおびと」と読まれていることから、印岐=印伎=因支=稲置のことであり、初代尾張国造は笠寺出身の乎止与命であり、妻の真敷刀婢命は国造配下の熱田で稲置のカバネ(姓)を持つ家の女であったと考えられます。
また、「熱田大宮司千秋家譜」によれば、686年(朱鳥元年)に尾張稲置見が大宮司を称するとあり、稲置見という名前は先祖のカバネを借用しているようにも思えます。
なお、尾張の稲置の初見は、『日本書紀』によれば日本武尊の西征に従った尾張の田子稲置が名古屋市瑞穂区田光町付近の豪族で、同じく尾張の乳近稲置が岐阜県羽島市足近町付近の豪族ではないかと見られています。
2.本文では久米氏を大和から尾張に派遣された一族とみなしている訳ですが、元々は尾張在住の来目部の部民であった可能性が考えられますので、以下に補足します。
知多半島の先端に位置する6世紀頃築造の名和古墳群(別名:三ツ屋古墳群)は、氷上姉子神社から西へ直線距離で約900mの所にあります。
この名和古墳群は氷上姉子神社との関連が指摘され、その後に熱田神宮が社地として購入し、境外摂社である氷上姉子神社の附属地となっています。
氷上姉子神社の神主家である久米氏の古代の奥津城が名和古墳群と仮定したならば、久米氏が元々はヤマト王権の軍事に携わった来目部の在地の部民であり、後に尾張国造の配下になった可能性が考えられます。
もしそうであれば、当然のことながら尾張の来目部と尾張国造や熱田の稲置とは強固な関係で結ばれていたことでしょう。