古代の宗像氏とその周辺

1.はじめに
 福岡県にある宗像大社(以下、宗像社という。)の奥宮が玄界灘の沖ノ島にあり、この島から「海の正倉院」と呼ばれるほどの多彩で貴重な品々が発見され国宝に指定されていますが、4世紀後半に始まったとされるこの祭祀を神官の宗像(胸肩、胸形、宗形とも称する)氏が単独で行ったとするにはその目的と必要な財力からして疑問であり、宗像氏がヤマト王権の国家祭祀の一翼を担ったものとするのが通説です。

 この通説の代表的な論考が篠川賢氏の「古代宗像氏の氏族的展開」(『宗像・沖ノ島と関連遺産群 研究報告Ⅲ』に所収、「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議編、平成25年)であると思いますので、この論考の一部を紹介しつつ、古代宗像氏と関係がありそうな事項を提示し、古代史の一端を推測してみたいと思います。

2.沖ノ島祭祀の主催者
 『日本書紀』の記述から沖ノ島祭祀が国家祭祀であったとする篠川氏の解釈は
おおよそ次のとおりであり、納得できるものです。
(1)応神天皇三十七年条に阿知使主らが高麗国経由で高麗人と共に呉へ行き、
  呉王から縫女4人を貰い、応神天皇四十一年条に阿知使主らが呉から筑紫に
  着き、この時に宗像大神が工女らを欲しいといわれ、兄媛を大神に奉った。
  これがいま筑紫の国 にある御使君の先祖であるとの記述に関しては、御使
  君の存在に注目し、宗像神の祭祀が天皇から遣わされた使いによって行われ
  ていたことを示唆し、この御使君氏は全国的に設置された御使部(三使部)
  の筑紫における伴造氏族(地方伴造)とみて間違いない。
  ここにいう御使君氏は、宗像神に奉られた兄媛を祖とするというのであるか
  ら、宗像神の祭祀のために派遣された使者を接待する部を管掌した地方伴造
  とみるのが妥当であるとのことです。
(2)履中天皇五年三月条~十月条にかけて、宗像神の怒りの神託が宮中にあ
  ったにもかかわらず、天皇は祈っただけで神に対する祭祀を怠ったため、
  天皇の妃(黒媛)が亡くなった。宗像神の怒りの原因は、かつて車持君が
  筑紫に派遣された際に、車持部を検校し、三女神の「充神者」(神戸)と
  なっていた車持部も奪い取ったためであった。天皇は車持君の咎を責め、
  以後は筑紫の車持部を管掌してはならぬとしてそれを収め、あらためて
  三女神に奉った、との一連の記述に関しては、かつて車持部として王権へ
  の奉仕が義務づけられていた人々が、宗像神に神戸として寄進されていた
  ことが推定されるとのことです。
(3)雄略天皇九年二月条に天皇が凡河内直香賜と采女を派遣して「胸方神」
  の祭祀を行わせたという記述に関しては、これは、宗像神の祭祀が王権
  の主催する祭祀であったことを直接的に示す記事との理解です。
  また、同三月条に雄略天皇は自ら渡海して新羅を討とうとしたが、行って
  はならないという神の諫めに従い、紀小弓宿禰や大伴談連らを将軍として
  派遣したとの記事に関しては、この神とは宗像神であろうと推定されてい
  ます。

3.宗像氏系図の注目点
 宗像氏系図の代表的なものとしては、『古代豪族系図集覧』(近藤敏喬編、東京堂出版、1993年)に所収のものがありますが、これによれば、天武天皇との間に高市皇子を生んだ尼子娘の父である胸形君徳善の先祖は未詳であり、徳善のひ孫の鳥麻呂になって初めて宗形神主と注記されています。
 これは胸形君徳善の活動拠点が中央で、以後、この系統が宗像氏の主流になった為との解釈も成り立ちますが、在地の宗像氏は7世紀以前においては神事が主体ではなく、主に地域の支配者としての任に当っていた可能性があり、これは沖ノ島祭祀の主催者が王権側にあったことと関連しているのかもしれません。

4.水沼氏との関連
 岩波文庫の『日本書紀(一)』の神代上の一書(第三)には日神の三柱の女神が宇佐嶋に降り、今は北の海路の中においでになり、これが筑紫の水沼君らの祭神であると書かれていることの注として、通証に「丹斎曰、胸肩氏為左座、水沼氏為右座」と記されています。
 通証とは『日本書紀通証』のことで、1762年に刊行された国学者谷川士清 の『日本書紀』全巻の注釈書で、丹斎とは忌部神道を唱えた江戸初期の忌部丹斎のことであり、室町初期の神道家で正平二十二年(1367年)に『日本書紀』神代巻を儒教的に解釈した『神代巻口訣』五巻を著した儒家神道の先駆者である忌部正通の説を受け継いだのが忌部丹斎とされていますので、この注の内容はある程度信頼が置けるものと考えます。
 そうしますと、どこの水沼氏がいつ宗像社の神主になったのかですが、通説では筑後国三潴郡を本拠としていた氏族であり、『日本書紀』の雄略天皇10年9月条には、身狭村主青らが呉(宋のこと)から献上された鵞鳥を携えて筑紫に帰ってきたところ、その鵞鳥が水間君(水沼君)の犬に食い殺されてしまったとの話を載せているので、筑紫君磐井の父親の世代には既に筑後の勢力が博多湾沿岸に勢力を伸ばしていたと仮定すれば、それに従って筑後の水沼氏の系統が宗像社の神主になっていた可能性が考えられます。
 『日本書紀』景行天皇十八年条では八女県に着いた時の従者に水沼県主猿大海がおり、『日本書紀』景行天皇四年条では国乳別皇子が水沼別の先祖とあるが、『先代旧事本紀』の「天皇本紀上」の景行天皇の項では50名の皇子の中に武国凝別命(筑紫水間君の先祖)と国背別命(水間君の先祖)の2人が記されており、どの皇子が水沼県主の先祖かは不明だが、県主とは、律令制が導入される以前のヤマト王権のカバネの一つであるとされているので、水沼氏は早くからヤマト王権に従属した在地の豪族だったのでしょう。
 また、『先代旧事本紀』の「天孫本紀」に物部阿遅古連(水間君等の先祖)が見え、物部氏系図によれば物部阿遅古連は物部麁鹿火の従兄であることが注目されます。
 磐井の乱を制圧したのが物部麁鹿火であり、『日本書紀』によれば継体天皇から筑紫より西はお前が統治し、賞罰も思いのままに行えと言われた人物なので、物部阿遅古連は磐井の乱後に筑後国三潴郡に派遣されたものと思われます。
 従って、物部阿遅古連を水間君の先祖とするのは『先代旧事本紀』の誤記と考えられ、この物部氏の後裔に水間君と姻戚関係を結んだ者がいたと解釈するのが正しいものと考えます。
 筑後国三潴郡の高良社の初期の大祝が物部氏とされ、『宗像大社文書 第三巻』の「宗像大菩薩御縁起」には七戸大宮司事としてそのナンバー2に物部福實をあげており、この人物には「筑後国高良玉垂藤大臣ノ御乳子也」と注記されていることから、この記事内容が10世紀初頭頃と推定されるので、水沼氏の宗像社の神官の地位を縁者の高良社の神官である物部氏が継承したとの推測が成り立ちます。

5.宇佐神宮との関係
 上記4項の如く、『日本書紀』の神代上の一書(第三)には日神の三柱の女神が宇佐嶋に降り、今は北の海路の中においでになりと書かれていることは、宗像三女神が元々は宇佐の神であるように思え、現在の宇佐神宮の祭神は八幡大神、比売大神、神功皇后の3柱で、この比売大神とは宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)のこととしているのは、『日本書紀』の宗像三女神の記載に注目して、比売大神と宗像三女神を関連付けたものと考えます。
 従って、宗像社も最初に祭られていたのは比売神であったと思われ、後に三女神に変更されたのだろうと推測されます。
 この比売神を最初に祭ったのは福岡県田川郡香春町にある香春神社とされていますので、渡来系の秦氏との関係が想定されます。
 上記4項の「宗像大菩薩御縁起」の七戸大宮司事のナンバー3には秦遠範をあげており、後に筥崎宮の宮司になったと書かれていますので、宗像社に比売神を持ち込んだのは豊前国の神官であった秦氏系氏族ではないかと思われます。
 また、徳川光圀の命で編纂された『神道集成』巻一の系図の三女神の項では、田心姫命に「筑前国宗像郡胸肩神社」、湍津姫命に「豊前国宇佐郡宇佐宮」、市杵嶋姫命に「安芸国佐伯郡伊都伎嶋神社」とそれぞれ付記されているのは、三女神の本籍地がこれらの神社と信じられていた結果なのかもしれません。
 聖武天皇の時代に駿河・遠江の久野氏の祖とされる神官の秦久能は、一時期、筑紫の大嶋にいたと久野氏の系図に書かれており、この大嶋には宗像社の中津宮があり、現在の祭神は湍津姫命ですので、『神道集成』に書かれている通りの神社から神官が派遣されてきたのかもしれません。
 上記の七戸大宮司事の秦遠範は、秦久能の末裔と考えられている人物で、その先祖は秦河勝とされています。

6.おわりに
 4世紀後半に始まった沖ノ島祭祀のきっかけは、石上神宮所蔵の七支刀の銘や、『日本書紀』神功皇后摂政四十六年~五十二年条の一連の記事にある百済との外交開始に求めるのが妥当とされており、時代的にも整合しています。
 本稿では、宗像社の沖ノ島の祭祀に注目して神官の宗像氏とはどのような存在であったのかを検討してみた訳ですが、天武朝以前においては宗像氏と共に、筑後出身の水沼氏や物部氏が、さらに豊前出身の秦氏系氏族がヤマト王権の主催する沖ノ島祭祀を現地において中心的に担っていたのではないかと推定してみました。

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