1. はじめに
7世紀の倭と日本に関する中国の正史の記述は変化に富んでおり、倭と日本の2国が列島に同時期に存在していたのか否かについては諸説がありますが、その他の点を含めて中国側がどのように列島の歴史を理解していたのかについて推測してみたいと思います。
2.倭と日本が同時期に存在していたのか
『新唐書』日本伝では国王の姓は阿毎氏で、初代日本国王を天御中主とし、神武の時に天皇と呼ぶようになり、都を筑紫城から大和州に移したとなっています。
一方、『旧唐書』日本伝では日本国は倭国の別種とし、あるいは日本は古くは小国なれども倭国の地を併せたと記され、また『旧唐書』には倭国伝の項もあることから、あたかも2国が同時期に存在していたかのように読めます。
これは、10世紀に編纂された『旧唐書』から11世紀に編纂された『新唐書』の間の約1世紀の期間に、7世紀の段階で日本列島が初めて統一されたという新事実が中国側によって発掘されたということを意味しているのでしょうか。
列島側の史料からも、とてもそのような事実があったとは思われません。
すなわち、『隋書』の阿毎多利思北(比)孤とは普通名詞の「天足彦」のことで、『新唐書』では用明天皇のこととし、『宋史』では聖徳太子のこととして中国の正史上では決着をみたことから、中国側の列島の交渉相手は同一の国であると理解できるからです。
つまり、中国側の列島の歴史に対する理解が深まり、同時期に2国が存在していたのではなくて、既に列島には大和を都とする1国しかないことをようやく中国側が了解したと考えるのが妥当です。
『釈日本紀』には、「唐暦云。此歳。日本国遣其大臣朝臣真人貢方物。日本国者。倭国之別名也。」とあり、また『通典』辺防一、東夷上、倭の項には、「倭一名日本,自云國在日邊,故以為稱。武太后長安二年,遣其大臣朝臣真人貢方物。」とあるので、唐代のいずれの史料も倭=日本としており、『旧唐書』が唐代の正史といえども誤解があったのは明らかです。
『唐暦』は617年~778年までの編年史であり、『通典』は801年に成立したとされます。
また、18世紀に編纂された『明史』日本伝では唐の咸亨年間(670~674年)の初めに国名を日本と改めたと記されており、この時点でようやく中国側が日本への国名変更時期を確定させたのであり、『日本書紀』天武三年(674年)三月七日条では「對馬國司守忍海造大國言、銀始出于當國、卽貢上。由是、大國授小錦下位。凡銀有倭國、初出于此時。」とあり、依然として倭国を称していることから、国名の正式な変更時期は、ほぼこの頃であったと解釈されます。
3.俀、倭、日本の領域
『隋書』俀国伝、『旧唐書』倭国伝、『新唐書』日本伝共に国の領域は東西5ヵ月の行程、南北3ヵ月の行程としており、額面通りに受け取れば同じ国のことを言っており、名前が変わっただけです。
しかし、『旧唐書』日本伝だけは国土の大きさは疑わしいとしており、『旧唐書』の編者が混乱していたように思われます。
4.俀、倭、日本のルーツ
『隋書』俀国伝、『旧唐書』倭国伝、『新唐書』日本伝共に国のルーツは倭奴国としており、『旧唐書』日本伝だけが倭国の別種としています。
つまり中国側はルーツと国の領域は一体のものであると理解していたように思えます。
5.阿毎氏と倭、日本の記述内容
中国正史に見える阿毎(天)氏と倭・日本の記述内容を講談社学術文庫の『倭国伝』を基に年代順に整理すると表のようになります。
当然のことながら中国側は列島の国王である阿毎(天)氏に並々ならぬ興味があったようですが、『新唐書』が先行して日本の国名を採用しているのは、日本と倭が同一の国であって、ただ国号を変更したにすぎないとの理解が前提にあったからでしょう。
6.『明史』の場合の冊封状況
明は1369年に略奪行為を行う倭寇を鎮圧するため、国書を使者楊載らから南朝の征西大将軍であった太宰府の懐良親王のもとに伝達し、懐良親王を「良懐」の名で「日本国王」に冊封しています。
なので足利義満は、当初は明国から「良懐と日本の国王位を争っている持明(北朝)の臣下」と看做されて、外交関係を結ぶ相手と認識されず苦労したということです。
明の時代でも太宰府にいる人物が日本列島の王であるとの認識が抜けきっていない訳ですから、国名を倭から日本に変更する際には、中国側を納得させるのに相当な苦労があったことは容易に想像されます。
7.まとめ
以上の考察から、両国の交渉状況や中国側の理解を整理すると、次のような想定が成り立つのではないでしょうか。
(1) 中国側には倭奴国の後継国の都は筑紫城にあるとの認識が継続してい
たので、7世紀初頭の段階でも倭国側はあえて大和に都があるとは説明し
ていなかった。
なので、国書の受取りも出先機関の大宰府で行っていた。
(2) 『旧唐書』が編纂される前の段階で倭から日本に国号を変更し、大和に
都があることを中国側に伝えたが理解が得られず、また中国側は日本を
倭奴国の正当な後継国とは了解できなかった。
従って、『旧唐書』では「倭国」と「日本」を併記することになった。
(3)困った日本側は、神武天皇の時に都を筑紫城から大和州に移したとい
うストーリーを作り、そのエビデンスとして『日本書紀』に神武東征の話
を盛り込み、倭奴国の正当な後継国であることを主張した。
(4)日本側のストーリーに納得した唐は、大和に都がある日本を倭奴国の
正当な後継国と認め、『新唐書』にその旨を記述した。
なお、記紀の神武東征は南九州を出発点としており、『新唐書』の都を筑紫城から大和州に移したという話とはズレがある訳ですが、唐にとっては『新唐書』の内容で納得したものの、史実ではないので国内的には東征時の家臣団の名前の列記は利害が絡むので、記紀の記述は南九州を出発点とした少人数の神武東征に落ち着いたのではないでしょうか。
いずれにしても、中国の『旧唐書』を根拠に倭国=九州王朝の図式は成立しないものと考えます。