1.はじめに
4世紀後半の築造とされる奈良県天理市の東大寺山古墳から出土した国宝の長さ約110cmの鉄刀には、金象嵌で「中平▢年五月丙午造作文刀百練清剛上應星宿下辟不祥」の24文字(推定文字を含む)が入れられており、その意味は概ね、「中平▢年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。百練鉄の刀であるから、天上では神様のお役に立つであろうし、下界では禍ごとを避けることができる。」と解釈されています。
一般的には全長が46~60cm以上の物を大刀と言い、この大刀については、一部から国産説が出されていますが、象嵌が銀を精錬で完全に除去した純金であったことから、高度な技術で作られた中国製であるとみられていますので、この中平銘大刀がどのような経緯で東大寺山古墳に持ち込まれたのかを推測してみたいと思います。
2.中平銘大刀の特徴
この大刀に装着されていた環頭は鳥文飾りであり、刀身は内反りしていて日本の前期古墳に特有の直刀とは違い、中平の年号が示すように中国の後漢製とみられます。また、中国製の刀身に日本で改造し、日本式の環頭を付したものと推定されています。
銘文の「百練」の文字は、石上神宮の七支刀や稲荷山古墳出土鉄剣にも刻まれていますが、従来は百回折り返し鍛錬したと理解されていましたが、これは普通の鉄ではなくて、中国産の良質なハガネを意味するとされ、中国産の百練鉄の優秀さを倭人に知らしめ、拡販したいとの思惑があったのではないかとの意見があります。
また、江田船山古墳出土の大刀には「八十練」の文字が刻まれていますが、これには国産の意味が込められているのかもしれません。
3.中平銘大刀は卑弥呼へ
中平とは後漢の霊帝の年号で西暦184~189年を指し、『魏志』倭人伝がいう「倭国の乱」が終結した時期の2世紀末頃です。
従って、この刀は「倭国の乱」終結後に中国からもたらされたものであると考えられています。
仁藤敦史氏は『東アジア世界の成立』(荒野泰典ほか編、吉川弘文館、2010年)に所収の「邪馬台国からヤマト王権へ」の論考で、倭国の乱が収束した直後の「中平」年間に造られた鉄剣が、中国あるいは遼東半島を支配していた公孫氏から、共立されたばかりの卑弥呼に、その地位を承認する意味で剣が与えられものと考えられるとしています。
また、糸島市の平原遺跡の副葬品には被葬者の頭部に横たえてあった長さ80.6cmの内反りの鉄製素環頭大刀があり、中平銘大刀とほぼ同時期に中国から入手した可能性があります。
さらに糸島市前原東にある上町向原遺跡からは長さ120cmの1世紀後半~2世紀前半に中国産の鉄鉱石で作られた素環頭大刀が出土しており、これは『魏志』倭人伝で正始元年(240年)に卑弥呼に下賜された5尺刀2口(5尺=115cm)の1口の可能性があり、もう1口は東大寺山古墳に埋葬されていたやや短い110cmの中平銘大刀かもしれません。
環頭が倭国で付け替えられていたならば、全長で5cm程度の差は出てくるのではないでしょうか。
4.中平銘大刀は邪馬嘉国から伊都国へ
「邪馬臺(台)国の場所」の項で、筆者は卑弥呼がいたのは伊都国に隣接して存在した邪馬嘉国の可能性があるとしたのですが、この伊都国については千戸を有する小国ではあるものの、玄界灘周辺の海外交易の拠点と想定され、後漢から金印を貰った倭奴国も近くに存在していたのではないかと想像しているところです。
倭奴国については、後漢の信任を得て貿易の窓口となり、他の倭の諸国を束ねていたと考えられますが、おそらく他のクニを取りまとめるため、後漢王朝の信任を示す威信財として金印を利用したのであろうとの意見が一部にあり、また金印を利用して中元二年(57年)に金印を拝領時に見学したであろう後漢王朝の北郊祀(『後漢書』本紀、中元二年春正月辛未条に「初立北郊,祀后土。東夷倭奴國 王遣使奉獻。」とある。)を真似た祭祀(祭場を金印が発掘された志賀島とすれば、福岡市西区の吉武高木遺跡の北方が志賀島なので、この遺跡付近が倭奴国か)を行い諸国にその権威を示していた倭奴国の力が、後漢王朝の混乱と弱体化に伴い衰退し、倭奴国の盛衰の状況を把握していた隣国の伊都国が主導し、諸国と協力して新しい日神祭祀を行う卑弥呼を盟主として擁立し、小国を分け与えて住まわせたのではないかと思われます。
『続日本紀』によれば、中国の影響を受けて行われた郊祀の最初は、桓武天皇が延暦4年11月10日に長岡京の南郊にあたる河内国交野郡の柏原(枚方市片鉾本町)にて郊祀が行われたものとされていますので、それ以前にもあったという事でしょう。
そうしますと、異常気象による食料不足に端を発して倭国の乱が発生し、倭奴国滅亡後に隣国の伊都国が主導権を担うことになったと考えます。
すなわち、倭国最大の規模を誇る7万戸の邪馬台国の王が、他国の王と共に擁立した卑弥呼に邪馬台国の王の地位を差し出したと考えるのはあまりにも不自然であり、前述のとおり伊都国王が中心となって伊都国の南部を割いて卑弥呼を女王とする邪馬嘉国を設立したと考えるのが素直です。
そして邪馬嘉国が存在意義を無くして滅亡した時、中国から卑弥呼に下賜された中平銘大刀などが伊都国に渡ったと考えます。
5.伊都国の剣・刀などにまつわる伝承
『古事記』の神産みの段において伊邪那岐命が所持していた十拳剣の名は、「天尾羽張」、別名を「伊都之尾羽張」としていますが、『日本書紀』では「十握剣」とだけ記していて、固有名詞はありません。
また、『日本書紀』仲哀天皇八年春正月条では、筑紫の伊都県主の先祖である五十迹手が八尺瓊、白銅鏡、十握剣をかけた大きな賢木を船首と船尾に立てて穴門の引島に天皇をお迎えしたという降伏の象徴的な儀礼の話と共に、天皇は五十迹手をほめられて「伊蘇志」とおっしゃり、時の人は五十迹手の本国を伊蘇国と言い、今は伊都というのはなまったものという話を載せています。
なお、怡土郡託社郷の郷名は、「正倉院文書 大宝二年筑前国嶋郡川辺里戸籍」の嶋郡大領肥君猪手の父の後妻が宅蘇吉志須弥豆売であることから、託社=宅蘇=高祖と想像され、糸島市には志摩岐志の地名もあるので、伊蘇志はかつて糸島市域にあった地名かもしれません。
また、宅蘇吉志の吉志は朝鮮半島からの渡来系氏族のカバネとみられます。
6.中平銘大刀は伊都国から大和へ
『日本書紀』の仲哀紀に伊都県主の先祖である五十迹手が引島に天皇を出迎えたという5項の話は、降伏し臣下となった関係の印として刀剣類などの家宝を天皇側に差し出したとの解釈も成り立つ訳で、『古事記』でイザナギが手にした鋭利な名刀の「伊都之尾羽張」とは、卑弥呼が魏から貰った大刀のことであり、剣の神である「伊都之尾羽張神」もこの大刀を題材にした神話なのかもしれません。
尾羽張とは、一般に先が鋭く反ってよく斬れるとも解釈されています。
『日本書紀』神功皇后摂政元年三月条には、九州から帰還する神功皇后や応神を、応神の異母兄の忍熊王らが迎え討とうとしたので、神功皇后は武内宿禰と和珥臣祖の武振熊に命じて忍熊王を討たせたという記事があり、武振熊は仲哀天皇や神功皇后に同行して九州などでも活躍したのでしょう。
もちろんこの戦いは、応神が即位するためには避けて通れない重要な一戦であったことでしょう。
そうしますと、4世紀中頃に武振熊は功績によりこの大刀を天皇から拝領し、後裔の和珥氏の先祖が東大寺山古墳に副葬したものと考えられます。
和珥氏は、奈良盆地東北部一帯に広く勢力を持った豪族で、その本拠地は大和国添上郡和邇(現天理市和爾町・櫟本町付近)と添下郡で、東大寺山古墳を含む櫟本古墳群はこの一族の墓所と推定されています。
7.おわりに
東大寺山古墳の後漢製中平銘大刀がどのような経緯で天理市までたどり着いたのかを推測したみた訳ですが、卑弥呼が魏から貰った5尺刀2口の1口が伊都国から出土し、もう1口が東大寺山古墳の中平銘大刀と想定され、2口共に邪馬嘉国から伊都国に渡ったものとするならば、卑弥呼が伊都国のすぐ南の邪馬嘉国に住んでいたとしても不思議ではないと考えます。
邪馬嘉国については「邪馬臺(台)国の場所」の項で述べたところですが、『翰苑』の倭国の項では、「邪届(馬?)伊都傍連斯馬」の見出しに続いて、「廣志曰倿(倭?)國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國百(自?)女(王脱?)國以北其戸数道里可得略載次斯馬國次・・・」とあり、『魏志』倭人伝のいう7万戸の邪馬台国が面積的に北部九州に入る余地が無いことや、福岡県の那珂川流域には仲哀紀に儺県(なのあがた)や宣化紀に那津(なのつ)官家の名称がみられることから、これらがかつての奴国の領域と考えられること、また『翰苑』の伊都国の近くに邪馬嘉国(女王国)や斯馬(志摩)国があったとする記述を重視すれば、『魏志』倭人伝に1回しか出てこない邪馬台国は倭人伝の挿入句であり、卑弥呼の邪馬嘉国とは切り離して考えるべきではないかとの思いを強くしているところですが、実際はどうだったのでしょうか。