1.はじめに
本稿は現在の皇祖神である天照大神の名前の謎に迫るべくその起源を探ったものであり、一案としてまとめました。
2. 日神とは何か
『日本書紀』の神代上には、「既而伊弉諾尊・伊弉冉尊、共議曰「吾已生大八洲國及山川草木。何不生天下之主者歟。」於是、共生日神、號大日孁貴。大日孁貴、此云於保比屢咩能武智、孁音力丁反。一書云天照大神、一書云天照大日孁尊。」とありますので、日神は大日孁貴(おおひるめのむち)と号し、一書では天照大神や天照大日孁尊のことだとしています。
従って、8世紀に入ってからの書紀編纂時点で日神としては3つの呼称が「旧辞」などで知られており、その時の有力な祭神名が大日孁貴だったので本文に記述したとの理解が可能ではないでしょうか。
「日孁」は「ヒのメ」であり、「孁」は『説文解字』に「孁は、貴い女の字なり」とあることからこの文字が用いられ、太陽の女神とするのが今日の通説のようです。
3. 日神の出現時期
皇女を日神に仕えさせた記事は書紀の用明即位前期と用明元年にそれぞれあります。
また、敏達6年(577年)には日祀部をおいた記事があるので、日祀部により日神が祀られていたものと解釈できます。
大化前代の祭祀関係の職業部には、中臣部、忌部、卜部、祝部、日祀部があったとされますので、各部の分担の詳細は不明であるものの、6世紀には日祀部による日神の祭祀が行われていたのでしょう。
4.天照大日孁尊の出現時期
天照大神の大神は敬称で、記紀に散見される高木大神や伊勢大神などと同様
に後代に考えられた呼称と思われ、天照大日孁尊は『万葉集』巻2-167の柿本人麻呂の挽歌に「天照 日女之命 天乎婆 所知食登」とあり、天照日女之命(あまてらすひるめのみこと)は天照大日孁尊の系統の神話から出てきた呼称と思われ、書紀の6世紀以降における命の初見は皇極2年(643年)に「吉備嶋皇祖母命が薨去された。」とある記事だと思いますので、天照大日孁尊の呼称は天照日女之命と同じように皇極期の頃には既に出現していた呼称ではないかと考えます。
5. 天照(アマテル)の出現時期
書紀には尾張氏の祖である天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあか
りのみこと)の神名がみえることから、天照は当初、アマテルと呼ばれていた
可能性もあることから、アマテルについて検討します。
(1) 対馬の阿麻氐留(あまてる)神社
対馬市美津島町小船越に鎮座する阿麻氐留神社については対馬観光物産協
会発行の『対馬神社ガイドブック』によればつぎのように解説されていま
す。
古代航路の拠点に鎮座する古社です。 祭神のアメノヒノミタマ(天日神)は
日神(太陽神)で、厳原町豆酘に鎮座する至高神タカミムスビの5世の孫とされ
ています。 日本書紀によると、5世紀、遣任那使・阿閉臣事代(あべのおみこ
としろ)が神託を受け、対馬のアマテル・タカミムスビを磐余(奈良県)に、
壱岐のツキヨミ(月神)を京都に遷座させています。対馬・壱岐の祭祀集団を
中央に移動させる政治的意図があったのかもしれません。 中国には、太陽は
もともと10個あり、旱魃が起きるため英雄が9つを射落としたという神話が
ありますが、阿麻氐留神社にも弓で的を射る神事が伝えられており、その
関連が指摘されています。
さて、阿麻氐留神社設立の理由については、1672年(寛文12年)の大船
越堀切水路が完成するまでは対馬の上島と下島はかろうじて繋がっており、
陸地のもっとも細いところで幅約160メートルの小船越を人々はその地峡を
越えて船を運び、あるいは船を乗り換えて往来したそうで、交通の要所を明
るく照らす日の神を祀るという目的があったとの説があります。
対馬市美津島町鴨居瀬には名神大社であった住吉神社があり、住吉三神を
祀る住吉神社は大阪・下関・博多・壱岐とこの対馬に鎮座していることか
ら、朝鮮半島へと繋がる大陸航路を守護すべく配置されていたのは確かで
しょうから、このルート上に阿麻氐留神社があることは興味深いものがあり
ます。
(2) 顕宗朝の記事との関連
上記(1)項の書紀の記事とは、顕宗3年4月5日に任那に遣わされた使者
の阿閉臣事代に対馬の日神(阿麻氐留神社か)が託宣して日神の祖である高
皇産霊神に倭の磐余の田を奉れと命じたので対馬の下県直に祠をまつらせた
というものです。
対馬には高御魂(たかみむすび)神社があり、その祭神が高皇産霊尊とな
っていることから考えて、阿麻氐留神社の元々の祭神がアマテル神であるこ
とは容易に想像されますので、書紀の天孫降臨神話などの場面に登場する高
皇産霊尊や天照大神の原形は対馬の産土神にあり、それを基に記紀の神話が
作られた可能性が考えられます。
つまり、ヤマト王権が各地を従える過程で神話体系に取り込んでいった各
地方の土着の神を国津神と称する訳ですが、天津神の神名の一部は国津神の
神名をヒントにして決まったと思われます。
また、『国造本紀』によれば津嶋県主は「橿原朝、高魂尊五世孫建弥己々
命、改為レ直」と記されていますので、対馬のタカミムスビ神、アマテル神
は津嶋県主の祭神だったのでしょう。
なお、『延喜式神名帳』にみえる大和国十市郡に鎮座の式内大社・目原坐
高御魂神社が上記の磐余の神社とみられており、橿原市太田市町北垣内225
に鎮座する天満神社(祭神:高御魂神、神産日神、菅原道真)に比定されま
す。
(3) 顕宗朝の記事の該当年代
欽明13年(552年)に中臣鎌子が物部尾輿とともに「我が帝の天下の王と
しておいでになるのは常に天地社稷の百八十神を春夏秋冬にお祀りされるこ
とが仕事である」と奏上したとの記事や、敏達4年(575年)に卜者(うら
べ)に命じて海部王や糸井王の家地を占わせたとの記事があり、対馬は伊勢
・壱岐とともに中臣氏が統轄する卜部を輩出した国であることから、顕宗朝
の記事はこの天皇の実在が疑わしいこともあり6世紀の出来事ではないかと
思われ、6世紀中頃には既に対馬のアマテル神やタカミムスビ神の名は中央
で知られていたものと思われます。
さて、対馬のタカミムスビ神―アマテル神の上下関係が書紀のタカミムス
ビ神―アマテラス神の上下関係と同じなのは注目すべきことではないでしょ
うか。
6. 中国『宋史』日本国伝の天照大神尊
『宋史』日本国伝によれば、日本の僧・奝然(ちょうねん)が984年に宋に
献上した日本国王の年代記には、
「初代・天御中主―天村雲尊―天八重雲尊―天弥聞尊―天忍勝尊―瞻波尊―
万魂尊―利利魂尊―国狭槌尊―角龔魂尊―汲津丹尊―面垂見尊―国常立尊―
天鑑尊―天万尊―沫名杵尊―伊弉諾尊―素戔烏尊―天照大神尊―正哉吾勝速
日天押穂耳尊―天彦尊―炎尊―彦瀲尊」
とあり、続けて
「およそ二十三代、みな筑紫の日向宮に都を置いていた。彦瀲の四番目の
子は神武天皇と称し、筑紫宮から遷って大和州橿原宮に住んだ。」
とあり、天照大神尊が登場しますが、書紀・神代下の本文で皇祖とされる
高皇産霊尊が欠落しています。
また、『宋史』と似たような記述として中国『新唐書』日本伝には、
「国王の姓は阿毎氏、彼がみずから言うには、初代の国王は天御中主と号し、
彦瀲に至るまですべて三十二代、いずれも「尊」と呼ばれ、筑紫城に住んで
いた。彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を
大和州に遷した。」
とあります。
『新唐書』の段階で天照大神尊を含む系譜を中国側に提示していたか定か
ではありませんが、『新唐書』の書き方からして既に日本側が『宋史』にあ
るような年代記を確定していた可能性は十分にあると考えます。
この『新唐書』の内容は、『日本書紀』白雉5年(654年)2月条に高向史
玄理らが唐に派遣された時に唐側から日本国の地理や国の初めの神名などを
聞かれ、その問いに対して全て答えたと記されていることに対応したもので
す。
7.神話の編纂年代
卜部を統轄した中臣氏の場合、神話の中に祖神として武甕槌(たけみかず
ち)が設定され、天児屋命と並んで中央神化し、高天原系の神に位置付けら
れたのは中臣氏が宮廷祭祀官としての地位を確立した後のことと考えられ、
それは6世紀後半より7世紀前半のことであろうと思われます。
6項の『日本書紀』白雉5年(654年)2月条の内容からみて、書紀神話の
基本は推古28年(620年)条に天皇記及び国記を記録したとあるので、この
時には完成し、その中に天照大神の呼称も含まれていたのではないでしょう
か。
8. おわりに
天照大神は人格神というよりは自然神のような名前であり、天照大日孁尊
の方が皇祖神に相応しい名前のようにも思えます。
804年8月に伊勢神宮から太政官に提出した『皇太神宮儀式帳』には、天照
坐太神や天照座皇太神の名がみえることからも、天照は元から普通名詞の扱い
だった可能性が考えられます。
『神社の古代史』岡田精司著、筑摩学芸文庫によれば、オオヒルメムチが
本当の守護神の名前だが、公式記録以外には一切言ってはならないタブーに
なっていたので、アマテラスが通称として使われたとしており、従うべき意見
かもしれません。
加えて、古代において斎宮や伊勢神宮の祝詞でどのような祭神が読まれてい
たのかは知る由もありませんが、書紀において皇祖を高皇産霊尊(古事記では
高御産巣日神)とし、中国には日本の初代の王を天御中主と報告していること
から、本来の皇祖神や守護神の関係も時代と共に変化していったものと思われ
ます。