日向神話の舞台はどこか

1. はじめに
 天孫降臨などの記紀神話に出てくる地名の比定は、どこを舞台にした物語な
のかを解明することにつながる訳ですが、ここでは日向神話の舞台がどこにあ
ったのか、なぜそこなのかなどについて考察します。

2. 日向の小戸の橘の檍原
 そもそも古代律令国家の「日向国」は西暦684年から696年までの間に成立
したものと考えられており、薩摩、大隅を含む南部九州の広大な領域であった
ものが、702年に薩摩が、713年に大隅が分離したものです。

 檍原(『古事記』では阿波岐原)はイザナギノ尊が黄泉国に行って受けた穢
れをはらうために禊の儀式を行った場所であると共に、三貴子(天照大神、月
読尊、スサノオノ尊)誕生の地です。
 また、住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)や阿曇連が祀る三神(底
津少童命、中津少童命、表津少童命)の起源譚になった場所でもあります。
 
 檍原は海洋神出現の地であり、日向は海人集団の活動拠点として把握されて
いたとし、物語の情報源は阿曇連氏ではないかとするのが神戸大学の古市晃氏
の見立てです。
 それは『日本書紀』応神13年条一云にある日向の諸県君牛が髪長媛を奉る鹿
子水門の伝承が日向の船団の存在を想定させることや、『類従三代格』延暦15
年(796年)11月21日付太政官符に日向の兵衛や采女の物資を船で運ぶことが
規定されていることが根拠なようです。
 その船団の船を係留する場所が日向灘に面する一ツ葉海岸によりかつて形成
されていたラグーンであり、明治37年発行の5万分の1地形図でも痕跡が確認
できますので、檍原は宮崎県大淀川河口部付近の宮崎市阿波岐原町に比定され
ます。
 また、阿曇連氏の本拠地である難波の安曇江も同様にラグーンだったのでは
ないでしょうか。
 なお、阿波岐原町には式内社の江田神社(祭神はイザナギノ尊とイザナミノ
尊)があり、宮崎市鶴島3丁目にある小戸神社(主祭神はイザナギノ大神)は
かつて阿波岐原町域にあったとされ、宮崎市内には「橘通」の地名も残ってい
ます。

3. 日向の高千穂峰
 天孫のニニギノ尊が降臨した高千穂峰の比定地については、古来宮崎県西臼
杵郡高千穂町(知鋪郷)の二上山や国見ヶ丘とする説と、霧島連峰とする説が
主流です。
 前者は、「チホ」という地名や『日向国風土記』逸文の知鋪郷の項に高千穂
の二上の峰に天孫降臨した記述を根拠にしたもので、後者は、『日本書紀』神
代下第九段本文や一書(第四、第六)の「日向の襲の高千穂」という記述から、
景行天皇の熊襲征討伝承は九州南部の八代・球磨・諸県以南が一括して熊襲
(曽)国として認識されていたのでこのような表記になったとする説がもっと
もらしいです。

 日向国臼杵郡には英多(あがた)郡(延岡市南部)があり、地名の由来が県
主の居所であったことによるとされ、神戸大学の古市晃氏は古くから王権と結
びついていた県主氏族が、前者の物語の情報源ではないかとされています。
 また『日本書紀』神代下第九段一書(第四)の「二上峯」という記述に注目
すれば、東西に峯があって相対する山容と一致していることから、霧島連峰の
日向国諸県郡と大隅国曽於郡(今の宮崎県・鹿児島県の県境)に跨る韓国(か
らくに)岳に比定する説が有力ではないかと私は考えます。
 こちらの情報源は諸県君(前身は諸県主か)とも考えられますが、同じよう
な所伝(その地方の自慢話程度か)が日向の南北2ヶ所に存在し、『日本書紀』
の編者は神話全体の構成上、天孫降臨神話は「日向の襲の高千穂」に軍配を上
げて本文に記述したものであり、鎌倉中期の著作である『塵袋』の、「風土記
ノ心ニヨラバ、皇祖裒能ノ忍耆(ホノノヲシキノ)命、日向ノ国贈於郡高茅穂
ノ槵生(クシフノ)峯ニアマクダリマシテ」の記述を重視すれば、それは槵生
峯に比定されると考えた方が素直ではないでしょうか。
 宮崎県小林市の『小林誌』によれば、韓国岳の「小林側になる北東の山懐に
栗生(クリハエ)と呼ぶ所がある」と記されており、この栗生は槵生峯を連想
させます。
 また、『日本書紀』景行紀18年条の天皇が巡行した夷守とは韓国岳の東に位
置する小林市の夷守岳周辺でしょうし、群衆が集まった岩瀬川のほとりとは今
でも小林市域を流れている岩瀬川の周辺なので、この景行紀の記事と天孫降臨
の地が同じ地域を題材にした内容であるのは興味深いことです。
 なお、『小林誌』によれば夷守岳の中腹に宮ノ宇都と称する場所は、ニニギ
ノ尊が造った高千穂宮の跡であるとのことです。

4.吾田の長屋の笠狭岬
 吾田の長屋の笠狭岬はニニギノ尊が鹿葦津姫(別名:神吾田津姫、木花開耶
姫)と出会いヒコホホデミノ尊が生まれ、その後裔としてウガヤフキアエズノ
尊-神武と続いた場所であり、比定地は鹿児島県南さつま市笠沙町の野間岬
です。
 この物語の情報源としては阿多隼人(薩摩国阿多郡)や加士伎県主(姶良市
加治木町か)が考えられます。
 また、鹿葦津姫は大山祇神の子であり、『伊予国風土記』逸文によれば大山
祇神は仁徳天皇の時代に百済から摂津の御嶋(三島)に渡ってきた神とされて
いますので、摂津に来る前には日向にいた可能性があり、前項の韓国岳の名前
の由来に関係するのかもしれません。
 『新撰姓氏録』和泉国神別には韓国(からくに)連氏が見え、韓国に遣わさ
れて復命の日に韓国連の姓を賜ったとの記述がありますが、実態はそうではな
くて、韓国連氏は大阪の陶邑窯跡群内の和泉郡池田郷(和泉市中央部)に居住
していたとされますから、元々は須恵器の工人として渡来して来たのでしょう。
 この韓国連氏も和泉に来る前は大山祇命と共に日向にいた可能性があり、韓
国岳周辺の地域を韓国と称し、後に韓国をウジ名としたのかもしれません。
 すなわち、『塵袋』に、「日向国ニ韓槵生村トイフ所アリトカキ、コノ所ニ
木槵子ノ木ノオヒタリケルカ、如何。」とあり、続けて「昔シ、哿瑳武別ト云
ケル人、韓国ニワタリテ、此ノ栗ヲトリテカエリテ、ウヘタリ。此ノ故ニ槵生
村トハ云フナリ。」と、また「風土記云、俗語、謂レ栗為二区児一。然則韓槵
生村ト云フ者、蓋云二韓栗林一歟ト云ヘリ。」との記述があり、この韓槵生村
は前項の『塵袋』の槵生峯に関係した村名と思われますので、韓槵生村が韓国
連氏のウジ名と対応しそうだからです。
 そうであれば、『古事記』の記す天孫降臨の山が「韓国に向かい」というの
は、韓国岳であった可能性が大です。
 また、諸県君の先祖にあたると思われる哿瑳武別が、『魏志』韓伝に記載の
馬韓の梨の大きさの大栗の木と共に、朝鮮半島から大山祇神や韓国連氏の先祖
をこの地方に連れてきた可能性を想定してもよいのではないでしょうか。


 なお、鹿児島県霧島市にある霧島神宮を霧島岑神と結びつけるのは5項のと
おり困難ですし、鹿児島神宮は海幸彦、山幸彦の伝承地とするのみで、薩摩・
大隅地方に目立った神話伝承がないことから、本来の日向神話の舞台は宮崎県
南部だけだったのかもしれません。
 『日本書紀』神代下第九段本文にはヒコホホデミノ尊の兄・ホノスソリノ命
を隼人らの始祖なりと明記しているのは、阿多隼人・大隅隼人との融和を図る
ための記述であり、のちに鹿児島地方も日向神話の一部に組み込まれたと考え
るのが妥当なように思われます。

5. 霧島峯神社
 宮崎県小林市細野に鎮座する霧島峯神社は「皇祖日向三代鎮座の社」として
ニニギノ尊、ヒコホホデミノ尊、ウガヤフキアエズノ尊がそれぞれ夫婦で祀ら
れており、境内社には大山祇大神、豊受大神などを祀っています。
 この神社は式内社であり、『続日本後紀』837年に諸縣郡霧嶋岑神として記
載されています。

6. 神武生誕の地
 『日本書紀』神代下第十一段一書(第一)には神武の幼名として狭野(サノ
ノ)尊の名が記されています。
 小林市のお隣の宮崎県西諸県郡高原町には神武天皇を祭神とする狭野神社が
あり、狭野尊と対応した神社名になっており、神武天皇生誕の地と伝えられて
いる皇子原は、高原町一帯を見下ろす高台にあります。
 狭野尊の情報源は、韓国連氏(790年に高原連に改姓)の可能性があります。
 すなわち、韓国連広足は『藤氏家伝』の「武智麻呂伝」に、余仁軍とともに
呪禁(じゅごん)で時の政治を補佐したとされ、政権内で有力者の地位を確保
していたからです。

7.なぜ日向国南部が神話の舞台なのか
 『旧唐書』日本伝の記述からは、国名を倭から日本に変更することに対して、
唐は王朝交代と捉え、日本が九州の玄界灘周辺にあった倭奴国をルーツとする
正当な国家なのか理解できなかったようで、その回答を『日本書紀』に記載す
る必要が生じたものと考えます。
 つまり、天皇家の出身地としては日向ではなくて北部九州が最適かもしれま
せんが、それでは倭奴国からの変遷の歴史や政権奪取、戦功者の記述などに困
難が予想され、畿内豪族を満足させる神話が作れなかったので、畿内豪族の利
害と無関係で、かつ神秘的な日向を発祥地に設定し、少人数で筑紫・岡水門を
通過する形で神武東征の物語に繋げたのではないでしょうか。
 この時、既に倭奴国は滅亡していたとの立場を貫けば唐も納得すると考えた
のかもしれません。

8. 筑前・高祖山付近と日向神話
 『筑前国風土記』逸文や『筑前国続風土記』、地誌、国史に筑前に関連した
天孫降臨などの神話情報が見当たらないこと、また、『日本書紀』神功皇后摂
政前紀に「日向国の橘小門の水底にいて、海藻のように若々しく生命に満ちて
いる神、名は表筒男・中筒男・底筒男の神がいます。」とあり、日向国と明記
していることから、高祖山付近に日向山や日向峠があることを主たる根拠に日
向神話の舞台が筑前にあったとして話を展開するのは無理があります。

9. おわりに
 本稿の結論は通説から逸脱するものではありませんが、日向神話の舞台を南
九州に設定したのは間違いないでしょう。
 記紀神話は地方豪族の所伝を利用して王権中心の物語として作成したもので
あり、『日本書紀』に存在する多数の「一書」は、編纂の過程で何度も書き直
した中間の結果を正直に掲載しているのか、それとも各案をそのまま列記して
いる可能性があります。
 そのような次第なので、記紀神話の内容そのものは史実とかけ離れたもので
あり、歴史研究の対象とするには不向きであり、従って神話の内容の一字一句
を厳密に解釈する必要は無いと思いますが、本稿では神話が出来上がる過程の
一端を探れたのではないかと思っています。

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