「卑奴母離」考

 『魏志』倭人伝においては対馬国、壱岐国、奴国、不弥国に「卑奴母離(ひなもり)」という副官が置かれていたのですが、4~5世紀ではないかと思われる時代の『日本書紀』景行天皇18年3月条に景行天皇が夷守(日向国諸県郡:今の宮崎県小林市)に着いた時の側近に兄夷守(えひなもり)、弟夷守(おとひなもり)がいます。

 また、『日本書紀』などによれば孝徳朝においては九州にも使者を派遣して、①武器の管理と兵庫建設、②戸口調査、③水陸地の利用調査などをしていたのではないかと推測されますので、夷狄政策としての隼人対策も同時に行われ、日向の夷守も現地で不穏な動きがあれば対応していた可能性があります。

 卑奴母離=戎夷守=夷守ですから、3世紀に始まった卑奴母離という官職が4~5世紀まで続いていたのは確かなようですが、夷守の地名としては筑前国夷守(福岡県粕屋町乙仲原西区付近に比定)、日向国夷守(宮崎県小林市細野夷守付近に比定)が『延喜式』に残っています。
 筑前と日向は駅馬としての地名であり、緊急時の情報伝達が目的ではないかとされます。
 日向の夷守は4~5世紀から続く隼人対策のために置かれた部署と考えられますし、筑前の方は3世紀から続く奴国の卑奴母離の歴史を引き継いで外敵や賊の対策用に置かれた部署ではなかったでしょうか。

 そもそも夷守のヒナとは辺境の守衛を任務とする職に由来する官名ではないかとされていますので、『魏志』倭人伝の「卑奴母離」は中央の邪馬台国からみて地方の守備につく官名と思われ、この中央が玄界灘付近にあったのでは奴国や不弥国の卑奴母離の存在は理解不能ですので、このことからも邪馬台国は北部九州にはなかったのでしょう。

 なお、夷守の類語の防人は中国・唐の時代から使われた言葉であり、日本での防人の初見は『日本書紀』大化2年条であり、「崎守(さきもり)」が転じて防人と表記されたものと思われ、『万葉集』巻4、596番歌の「八百日行く浜の真砂も我が恋にあにまさらじか沖つ島守」とあるので、「島守」という言葉も使われていたのでしょう。

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