尾張富田氏と荒尾氏

 愛知県東海市域の富田庄(中世のある時点から荒尾庄富田村)があった東海市富木島町には鎌倉時代の特徴をもった古い五輪塔が七基存在し、その中の一段と形の良い五輪塔が業平塚と呼ばれています。
 これらの五輪塔は、この地を治め、融通念仏宗の開祖である聖応大師良忍上人(1072年~1132年)を生んだ藤原氏の一族が、在原業平と業平を慕って都からこの地まで来て悲恋の死をとげた女官あやめの菩提塔として建てたものという伝承があり、正徳年間(1711年~1716年)に宝珠寺(西寺)が後述する一心院(東寺)と合併して現在地に移転する前の寺院墓地に建立されていたそうです。

業平塚の五輪塔

 宝珠寺には業平像や位牌が現存しますから、地元では根強く言い伝えられていたものと思われます。
 良忍上人の父親は富田殿と呼ばれた藤原道武(融通念仏宗三祖略伝によれば藤原秦氏兵曹道武)で、母親は熱田大宮司の娘となっています。
 現在の宝珠寺が良忍上人の生誕の地で、場所が富田であったことから富田殿と呼ばれていたそうですから、この一族は当時から富田の名字を称していたと思われます。

 藤原秦氏兵曹道武とは大変珍しい名前ですが、藤原姓を称する本姓は秦氏、官職唐名を兵曹という人物だったようです。
 洞院公賢(1291年~1360年)編の拾芥抄によれば、近衛府の将曹や衛門府の志はいずれも四等官であり、この唐名を兵曹と言い、位階は従七位下相当のようです。
 また今昔物語巻第二十八には近衛舎人左近将曹・秦武員なる人物が見えますから、官職・官位共に同じであり同族として何らかの関係があったのかもしれません。
 道武は奥之院正法山一心院普門閣寺(東寺)を建立し、付近には同家累代の墓所が作られ、それが現在の正法塚として残っています。寺そのものは今の宝珠寺・観音堂のような建物だったのではないかと思われます。
 一心院の本尊が聖観音菩薩立像で、これが鎌倉時代初期の作といわれる現在の聖観音立像の体内仏になっていることからも、道武が生きた時代とほぼ整合しているのではないでしょうか。

 ここで富田氏と久野氏との共通項は、本姓が秦氏で藤原の名乗りを許され、京都と縁がありそうなことですが、注目すべき点としては『日本後紀』延暦24年7月9日条によれば、造宮大夫に任ぜられ平安京遷都の責任者も務めた藤原内麻呂が尾張国智多郡の土地13町を賜っていることです。
 この智多郡の所領を管理する立場で富田氏の先祖が下向してきた可能性はないでしょうか。

 さて、富田の隣の荒尾を本貫とする荒尾氏は鎌倉幕府の御家人であり、二百町を越える広大な所領を愛知県一宮市域の中島郡内に持っており、応安三年(1370年)の一宮市の妙興寺文書によれば荒尾泰隆の給人に富田橘三右衛門尉の名がみえ、広大な所領を実際に把握していたのは富田氏らの地侍層でした(『一宮市史』)。

 また、妙興寺文書によれば荒尾泰隆は高階泰隆を名乗っており、高階氏の先祖の師尚は伊勢物語より派生した話として、伊勢斎宮・恬子内親王と在原業平が密通して生まれた男児を伊勢権守兼神祗伯の高階峯緒が引き取り、師尚と名付け、子・茂範の養嫡子にしています。荒尾氏が室町時代から在原姓を名乗っていることからも、先ほどの業平塚は荒尾氏の鎌倉時代の先祖の菩提を弔うものであり、荒尾氏の鎌倉時代の菩提寺は宝珠寺であったと思われます。

 高階氏系図によれば、法成寺執行家及び最勝金剛院執行家の系統に少輔法印・泰隆-少輔法印・泰登の父子がみえるので、高階泰隆は在京していたのでしょう。

 そもそも荒尾氏がなぜ一宮市域の中島郡内に広大な所領を有していたのかですが、高階為遠が天仁元年(1108年)1月24日~永久三年(1115年)12年16日の約8年間にわたって尾張守を歴任しており、高階氏が国司の権力を利用して尾張の中島郡に所領を有し一族が伝領していたが、南北朝の頃に所領の現地支配を同族の荒尾氏に委ねたのではないかと思われます。

 『知多郡史』では知多半島に関係が深いと思われる富田氏と花井氏を尾張守護・土岐頼康(~1406年)の時代の守護代であったと記していますが、一宮市萩原町には富田方、花井方の地名が今でも残っているのがその証拠かもしれません。
 花井氏については、『新編東浦町誌』が「地名比定と東浦町」の項で、無理を承知と断りながら番賀郷の一里である花井里を、在地土豪はしばしば土地名を名乗ることを踏まえて、戦国の土豪花井氏の居城寺本城があった知多市八幡地区の「旧堀之内村」を含む位置においています。
 永正6年(1509年)の文書に大高城主花井備中守の名がみえることからも、花井氏の名字の地は名古屋市緑区鳴海町の花井だと言われていますが、知多市域の古代の花井の地名がいつ頃まであったのかが不明であり、容易に決着しない課題かもしれません。
 南北朝の頃、名古屋市緑区大高町の鷲津山には美濃の土岐一族が住み、守護代として鷲津殿と呼ばれていたという話もあり、この時から土岐氏との接点が出来て、富田氏は土岐氏と荒尾氏それぞれに仕えていたと思われます。
 尾張藩士の樋口好古(1750年~1826年)が書いた『尾張徇行記』の込高新田(東海市と接する天白川左岸一帯)の項では、「又云、鷲津氏尾張萱津頼益ノ弟伊勢守光兼尾張知多郡鷲津ヲ領セシヨリ称号トセシト也」とあり、土岐系図では光兼は洲原伊勢守を名乗っている点が相違していますが、当時地元ではそのように言い伝えられていたようです。

 戦国時代には水野氏が知多半島に勢力を伸ばしてきますが、荒尾庄内の平島城主となった水野成政(~1522年)は知多市域の花井信忠(1443年の知多市津島神社の棟札に見える)の後裔を称する花井氏を伴い現在の宝珠寺の地にあった富田城を落城させ、それにより富田氏はこの地を退去したのではないかと思われますが、地元には残念ながら富田氏を物語る史料は何も残っていません。

 また、平島城は荒尾庄の海の玄関口であった可能性があり、ここを敵に制圧されるのは荒尾庄の死活問題であったと考えられます。
 荒尾氏が戦国時代に荒尾庄から南の木田庄に本拠地を移したのも、地形的な面で有利と判断したのは間違いなさそうです。

 表は東海市の富田の地を発祥とする富田氏の一族ではないかと思われる人物をまとめてみました。

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