1.はじめに
国会図書館が所蔵する『諸系譜』には難波田使首系図があり、岡山県の大族で
ある難波氏に加えて、末尾には豊臣秀吉が水攻めにした備中高松城の城主・清水
宗治の孫までが記載されています。この系図は清水宗治の後裔で元長州藩士の清
水氏のために明治の初め頃に作成されたものと考えられます。
この系図は高魂命(高御産巣日神)に始まり、葛城国造の剣根命の記載や、
『日本書紀』欽明天皇17年(556年)7月6日条の葛城山田直瑞子を備前・児島郡
の屯倉設置に伴いその田令にしたとの内容が載せられており、加えて田使首姓
を負ったとしています。
そして後裔の諸主が津高郡擬少領として備前・津高郡駅家郷難波に住み、その
後に惟信が難波権守を称し、子の親信が天永元年(1110年)に出家、続いて親信
の孫で平家の家人の難波経遠がいて、16世紀には赤松政則に仕えた岡山市北区御
津伊田の殿谷城を本拠にしていたと思われる難波行豊に至るというのが大きな流
れです。
2.この系図の疑問点
第一の疑問は、葛城山田直姓から田使首姓に改姓したとしていますが、ウジ名
を葛城山田から田使に変えたのは田令として屯倉管理者になったので当然なよう
に思われるかもしれませんが、わざわざ大和の名族・葛城のウジ名を捨てる必要
がなぜあったのかです。
そもそも田使とは平凡社刊『世界大百科事典』によれば、「奈良時代から平安時
代初期にかけて、寺院または王臣家の荘園の経営にあたったものをいう。」とされ
ており、6世紀に田使という職名が存在していたとは思われません。
またカバネが直から首に変わっていますが、一般的にカバネは上位から臣・
連・君(公)・別・直・造・首の順とされており、2段階下のカバネに変更する
のは不審です。
ここで系図の作者がなぜ「田使首」を持ち出したのかですが、『日本三代実録』
仁和元年9月10日条には「備前国津高郡人正七位上田使首良男貫附山城国愛宕
郡」の記載があり、この事を知っていた系図作者が難波・清水両氏の先祖に仕立
て上げたということでしょう。
そうだとすれば欽明紀の児島屯倉・田令の葛城山田直瑞子と津高郡の田使首、
及び津高郡在住の難波氏を接続することが可能であり、一見すると矛盾のない系
図になるからです。
なお、『日本三代実録』の田使首良男の位階は郡の大領に相当し、貫附と書か
れていることから、本人は出向先の備前国津高郡から本貫地の山城国愛宕郡に
帰ったものと解釈されます。
第二の疑問は、備前・津高郡駅家郷難波が本当に難波氏の名字の地なのかです。
平安時代末期の在地領主はその地名を名字にすることが多いのですが、現在
のところ津高郡内に難波を称する地名や荘園は見当たりませんし、奈良時代の
津高郡司としては、大領が薗臣(名欠)、少領が三野臣浪魚の名がみえ、いずれ
も吉備一族を構成した在地の有力氏族であり、難波氏が郡司の系統の一族で、
かつ在地領主の一角を占めて難波姓を名乗ったとするには無理があるように思え
ます。
3.難波部氏の概要
難波部氏が後に難波氏に改姓したとする明確な資料はないのですが、一例と
して古代の秦(人)部氏が現在では皆無であり、秦(人)部氏が秦氏に改姓して
いるのではないかと推測されますので、難波部氏も同様であろうと思います。
そこで「難波地域をめぐる古代氏族の動向-難波部と美努氏の関係をとおして
-」竹本晃著(『大阪叢書2 難波宮から大坂へ』栄原永遠男・二木宏編、和泉
書院、2006年に所収)から難波部氏の概要を紹介します。
(1)難波部氏が現れる古代の例としては大宝2年(702年)の筑前国嶋郡戸籍
の難波部伊母売や難波部犬手売、また同年の豊前国仲津郡戸籍の難波部馬手、
豊前国上三毛郡戸籍の難波部牛麻呂や難波部根売で、すべて九州東北部の沿
岸部の人物です。
また、筑前国嶋郡にあたる元岡・桑原遺跡群から出土した木簡には難波部
十人□や嶋郡赤敷里□(侍ヵ)難波ア□(首ヵ)がみえます。
(2)『続日本後紀』承和12年(845年)9月庚午条には「庚午、筑前国宗形郡人
権主工従八位上難波部主足、本姓を改め美努(みの)宿祢を賜う。河内国若
江郡に貫す。」とあり、『日本書紀』清寧天皇即位前期に河内国三野県主小根
が星川皇子の乱に関連して命乞いの報恩として差し出した難波地域の所領の
一部が後の摂津国西成郡美努郷と考えられるので、難波部氏は西成郡美努郷
地域にいた三野県主関係者たちを編成した結果成立した氏族である。
(3)その後、難波部氏は難波吉士氏の統括のもと、三野県主の外交交渉、水上
交通に長けた側面を見込まれて九州東北部の地に配されることとなったので
ある。
4.難波部氏が3項以外の地域に配置されていた可能性の検討
(1)現在、難波氏が県単位で多く分布している地域は次のとおりです。
・神戸市・姫路市・岡山市・倉敷市・総社市・福山市・広島県府中町・広島
市・岩国市・柳井市・周南市・北九州市・国東市・大分市
以上は、いずれも海上交通に関係した地域と思われ、古代において海外か
らの使節の送迎や接待などに従事した人々の後裔の可能性が考えられます。
古代において瀬戸内海航路を行き来する場合、順次、各港に入港し目的地
に到達するのが一般的であり、現在の難波氏の分布は古代の難波部氏の分布
とよく一致しているのではないでしょうか。
岡山県の難波氏が難波の地名を名字にしたとするならば、他県の難波氏が
全て岡山県出身者とも思われませんし、各県にそれぞれ難波の地名があった
とも思われないことから、難波部氏=難波氏と考えるのが妥当です。
(2)瀬戸内地方で式内社の宗形神社は備前国に2社あり、それは赤磐市是里
(旧赤坂郡)の宗形神社と岡山市北区大窪(旧津高郡)の宗形神社です。
赤磐市の宗形神社は沿岸部から遠く離れた場所にありますが、赤磐市の
難波氏は岡山県内11位の約300人が在住で、この宗形神社の神紋が左三つ巴
で、難波田使首系図の難波氏の家紋と同じですから、津高郡から移住してき
た一族の可能性があります。
一方、岡山市の宗形神社は備前一宮の吉備津彦神社の北3kmほどの場所
にあり、備前・難波氏の本拠地付近だと思われます
備前国津高郡にはかつて港があったとされますので難波部氏が配置され、
後に宗形神を勧請し、航海安全を祈願していた可能性は否定できません。
5.田使氏について
ここでは前出の『日本三代実録』の田使首良男以外についてみていきます。
文明15年(1483年)3月に赤松家臣の難波行豊が著した刀剣書の能阿弥本
「銘尽」には田使行豊の署名がありますが、これは他の武士がさほど根拠があ
るとは思えないのに源や藤原の姓を名乗ったのと同じようであったと考えて
もよいのではないでしょうか。
すなわち、難波行豊は知識人でもあったので、『源平盛衰記』の「師高流罪
の宣の事」の項には禁獄官兵等の交名の中に、「田使俊行、難波五郎と註した
り」の記事を承知していたので、田使姓を使ってみたといったところでしょう。
このような軍記物の注記が史実かは、現時点判断ができません。
6.清水氏の先祖について
系図では難波行豊の孫・宗綱は備中国賀陽郡八田部(旧総社市八田部村)
を領して清水城主となり、その子・宗則が清水氏を称したとしています。
しかしながら、清水城の所在が不明であり、旧総社市の清水村がどの時点
までさかのぼることが出来る地名なのかは不明です。
さらに、難波行豊の子で、宗綱の親が行宗を称し、清水宗治の兄・宗知の
子が同名の行宗を称していることから、名前の使いまわしという点で仮冒系
図の可能性は否定できず、本系図を根拠に清水氏の先祖を難波氏に求めるの
は早計ではないでしょうか。
そもそも清水宗治の後裔の長州藩士・清水氏は宗治以前の先祖は不明とし
ており、備中・清水氏の嫡流家ではなかったのでしょう。
「ごさんべえのペーじ」というHPの窪屋郡生坂村・清水氏の項(現在、該
当ページが見当たらない)では、この清水氏は備中に来る前には近江にいた
とされます。
近江の清水氏といえば、国立公文書館所収の「近江国御家人井口中原系図」
に、清水五郎長遠-青根源次某―青根源三廣継の系統が見え、彦根市域の荘
園である清水庄、青根庄の荘園名に関係がある名乗りであると解釈されます。
詳細は不明ながら、清水庄には清水新庄、清水本庄があったとされ、下級
官人・中原氏の後裔がこれらの荘園の荘官の地位を獲得し、荘園名を名字に
したと思われます。
この系図で中原氏は崇峻天皇を祖としていますが、皇統譜にそのような記
述はありませんので、上記のとおりと判断されます。
また、中世のお城(居館)として滋賀県彦根市清崎町に清水城があったと
されますから、清水宗治の系統もこちらが先祖の候補地になり得ると考えま
す。
7.おわりに
かねてより、この系図に基づき備前・難波氏を無批判に田使首氏の後裔で
あるとするのは問題であると思っていましたが、『諸系譜』は明治時代の著
名人の歓心を買うために編纂された意図もあるのではないかと思い検討を加
えた結果、古代の部分は信用が置けず、12世紀の難波経遠辺りからが史実で
はないかと思われます。
また、竹本晃氏の難波部氏は河内国の三野県主関係者であるという説に従
って、難波氏は難波部氏の後裔ではないかと推測してみました。
もちろん、地方の難波(部)氏の先祖が全て三野県主の関係者だとは断言
できませんし、地方の有力者が中央の難波部氏の配下に組み込まれた結果、
難波部氏を名乗っていた可能性が考えられます。