久野氏の祖とされる秦久能が祀られている久能神社は、久能山東照宮の社務所の北側にあります。
『久能山叢書』によれば、「祭神 久能忠仁、神厩の裏手小丘の上、三十九段の石灯があり前面一尺二寸、奥九寸、屋根流造石造の小祠である。享和三年武蔵の住人某の発企で社務所の北西の丘上に初めて建立したのを明治年間に今の地に移祀したのである。逸見仲三郎の久能山考に、久能神社ハ玉泉院今の社務所のところ藪内榎木ノ本ニアリ奇事多キヲ以テ近世祠ヲ建ツ秦ノ久能之古墓ナリとある。」となっています。
異説としては、地名辞書の久能村の項に「久能神社 県社、駿河安倍郡久能山、徳川家康、元和三年創建」となっていますが、家康は元和2年4月に亡くなっていますので、この記述はちょっと疑問です。
ただ、慶長・元和の頃に久能山を退去した愛知県大府市の久野氏との関連では、久能神社の設立も退去の条件としてあり、後に家康家臣がそれを守り、元和3年(1617年)に久能神社が創建され、享和3年(1803年)に再建されたと解釈できなくもありません。
久能忠仁とは『久能寺縁起』に、「推古天皇御宇贈太政大臣尊良之次男久能忠仁公」として登場しますが、日本最初の太政大臣とされているのは天智天皇が天智10年(671年)1月に任命した大友皇子であり、推古天皇の時代の人物が後に太政大臣の称号を贈られたというのは初耳ですし、鉄舟寺蔵の久能忠仁木像は何だかモダンな感じがします。
時代的には『駿国雑志』の補陀落山久能寺の項で、「久能山の縁起を尋るに、昔、聖武天皇の御宇、秦川勝が二男、尊良の子、久能と言うもの、山に入りて獣を狩けるに」という記述があり、この記述の出典は不明ながら、時代的にもこちらの方が合っているような気がします。
久能神社の例祭は5月18日で、『久能山叢書』には久能墓の項もあり、
「久能墓は玉泉院の後園にあり、年来草無の中にありしが近世異霊の事ありしより新に此所に社を建て尊崇す、久能尊良の墓是なり、昔久能寺の名ごりの残れる此墓而巳なり、長明が海道記にみえたる厳船の護法と号する大岩、坂中にありしといへるも城郭となしたる時や失たりけん。今玉泉院の後の方に方二間ばかりの大岩の埋もたるあり、岩のほとりにて不浄のことあればたたりありとて近年其岩に聖天堂をたてしと云岩あり、岩舟の護法のなごりにはあらざるか。」
となっており、墓の主が秦久能ではなくて久能尊良というのも変ですが、加木屋系図の冒頭には秦川勝の孫として尊良の名がみえますので、この情報が誤って伝えられたとも考えられます。この神社近辺は久野氏にとって一種の聖地だったのかもしれません。
写真は特別に参拝させてもらった時のものです。後ろに日本平との間のロープーウェイの索が見えます。
