工藤祐経は源頼朝の寵臣であり、また所領争いから曾我兄弟の仇討ちにあったことで有名ですが、袋井市下山梨の久野氏系図では、
工藤祐経―祐時―祐朝―祐光―祐宗―宗仲―忠宗―清宗―宗継―国継―清元―宗司―宗則―宗種―宗清―宗隆
と人名が繋がっており、宗清を「工藤遠江守、工藤左衛門尉祐経十四代の孫なり」とし、宗隆を「久野氏元祖、工藤遠江守宗仲十代の孫」としています。
つまり、宗清までの名字は工藤で、宗隆から久野になったと主張していますが、伊豆の伊東氏系図では祐時から伊東を称し、また『尊卑分脈』では駿河の原宗仲の子が久野忠宗を、忠宗の子が久野清宗を称していますから、袋井下山梨系図の工藤―伊東―久野と繋がる系譜は疑問であると言わざるを得ません。
また岸和田藩家老久野家の初期段階の系図では、「工藤遠江守時憲から宗隆までの約300年間の系譜中絶す。久野城主佐渡守宗隆に至りて久野を以て氏とす。是久野の祖ナリ。」と書かれており、「岸和田系図」の項で紹介した系図は最終版とでも言うべきものですので、最終版を作成する段階で追加の情報収集がなされたものと考えられます。
この最終版の系図で久野宗種は伊東大和守祐尹三男とされ、「岸和田藩久野家文書」には工藤祐経の先祖から久野宗種までの系図が掲載されており、伊藤(東)祐長の兄弟、子供以下の人名は各種資料からその存在を確認出来ませんが、宗種の兄である祐義が「伊東志磨守遠江橋城主」となっており、この遠江橋城とは文明年間(1469年~1486年)に今川一族の堀越(今川)貞延によって築城された見付端城(静岡県磐田市)のことと考えます。

もう一人の兄の重氏は「円井十郎」と書かれ、甲斐の円井郷(山梨県韮崎市円野町)を本貫とする武士の養子と考えられ、久野宗種も駿河に移住してきた伊豆の伊東を本貫とする伊東氏の一族であったと思われます。
南北朝時代には駿河安倍城の狩野氏は本拠を内牧城(静岡市葵区)に移し、その支配領域は安倍川、藁科川と大井川上流域に及ぶ安倍山です。これらの地域を工藤氏系一族の入江、伊東、藁科の諸氏とともに支配し、駿河国安倍郡のうち次のような土地が石塔氏や武田氏から伊東氏に宛行われたり、郷司職が安堵されています。
・正平14年(1359年) 石塔範茂→伊東左近将監祐茂 安倍郡浅服庄(50貫)
・正平14年(1359年) 石塔範茂→伊東掃部助祐茂 安部山大嶋村
・正平14年(1359年) 石塔範茂→伊東掃部助祐茂 安倍山仙俣
・延文6年 (1361年) 石塔範家→伊東掃部助祐茂 安倍山湯山村内夜打谷
・貞治2年 (1363年) 石塔範家→伊東掃部助祐家 安部山上田村地頭郷司職
・応永3年 (1396年) 武田信家→伊東祐範 安部山玉河手之内国末木取木
この安倍山に含まれる郷村は現在の静岡市北部の山間部に位置する葵区田代・口仙俣・奥仙俣・油山・井川・落合に比定されます。
これらの地域は至徳2年(1385年)11月15日の足利義満御判御教書を以って駿河守護今川泰範に安堵され、今川氏の直轄地になっています。
また、石塔氏や武田氏から甲斐・山小笠原庄の次のような土地が伊東氏に宛行われています。
・貞治5年(1366年) 石塔範家→伊東掃部助祐家 弘篠郷内小平村
(山梨県韮崎市穂坂町)
・応永3年(1396年) 武田信家→伊東蔵人祐範 朝尾郷内下村岡(3貫)
(山梨県北杜市明野町)
以上のことから、南北朝時代に駿河の安倍山方面を支配していた伊東氏が、その後駿河守護となった今川氏の家臣となり久野氏との縁が出来、また互いに韮崎市に所領を有する円井氏と伊東氏が姻戚関係を結んだのではないかと思われます。
時代は下がって文明8年(1476年)に今川義忠が討ち死にし、今川家の家督は一族の小鹿範満が継いだ訳ですが、この時に伊東伊賀入道祐遠が小鹿範満から感状を貰っており、また天文年間(1532年~1554年)に今川義元の家臣であった伊東左近将監元実が三河吉田城代(愛知県豊橋市)となっていますので、今川氏の重臣に伊東氏がいた事は間違いありません。
工藤祐経から伊東(久野)宗種までの系譜を傍証する資料はありませんが、宗種が工藤祐経に繋がる駿河の伊東家から久野家に養子として入ってきたのは事実であり、自家の氏祖情報を持ち合わせていない時点では、養子とは言え出自が明確な実家の伊東氏の情報を採用して工藤祐経の後裔であると主張するのはあり得る話ではないかと思われます。