1.はじめに
明智光秀のルーツについては、「三河三宅氏」の稿で主に名乗りの共通点から三河三宅氏と同族ではないかとしたわけですが、本稿では東大史料編纂所蔵の「明智氏一族宮城家相伝系図書」(以下、宮城系図と称する)や三宅家史料刊行会編の『明智一族三宅家の史料』に掲載の熊本藩士三宅家系譜(以下、三宅系図と称す)の細部を検討し、三河三宅氏同族説を補強してみたいと思います。
2.宮城系図の検討
(1)通字の「頼」から「光」への切替わりについて
頼弘以前は土岐氏や明智氏の通字である「頼」が多用されているが、
光継以降 は「光」を通字としているのは釈然としません。
この系図で光継の本名を頼典としているのは、土岐系図では最も信頼
がおけると思われる『続群書類従』巻百二十八(以下、類従本系図と称
する)の最初の一本に掲載の頼典と同一人物ですが、なぜ土岐氏流の通
字である「頼」の本名を捨てて光継と改名したのか不思議です。
また、光継以下に頼の字を使った人物が皆無なことからも、光継を
明智系図に無理やり接続した、いわゆる仮冒系図の可能性は否定できま
せん。
(2)明智城が戦国時代に存在していたのか
宮城系図や三宅系図が共に明智城は斎藤義龍に攻められ落城したと書い
ていますが、可児市の明智城の遺構を見る限りでは、自然の要害を利用し
た山城とは異なり、どこからでも攻め込むことが容易な地形であり、また
曲輪や堀切は確認されていません。
明智城は『美濃国諸旧記』によれば明智次郎長山下野守頼兼が康永元年
(1342年)に築城し、弘治2年(1556年)に落城したというが、平凡社
刊の『岐阜県の地名』によれば、明智氏や明知庄とのかかわりは不詳とな
っており、早い時期に廃城となった可能性があります。
明知庄内の岐阜県可児市御嵩町顔戸の八幡神社には長禄5年(1461年)
3月9日銘の棟札に「地頭御代官妙椿上人」や「美濃国守護代斎藤妙椿」
の名がみえ、この時既に守護代斎藤氏によって本領の明知庄は横領されて
いた可能性があり、15世紀には明智城は廃城になっていたと考えられ、
明智氏の一部が室町幕府の奉公衆になっていたとはいえ抑止力にはならず
、在地の守護勢力には勝てなかったということでしょう。
従って、光秀の時代に明智城が落城したという話は作文であり、この
時代に有力な土岐明智氏が存在していたとするには無理があります。
(3)三宅姓を名乗った理由
宮城系図では一時的にせよ三宅姓を名乗った人物には、光俊、光景、
宗俊、某(三宅系図によれば重利)、某(三宅主水)の5名がいますが、
なぜ三宅姓を名乗ったかについては何も書かれていません。
これは本来の姓が三宅で、光秀が立身出世のために土岐明智姓を称した
のに呼応して、一時、その他の一族も明智姓を名乗ったと解釈するのが
素直ではないでしょうか。
(4)明智頼典の後裔が歴史の表舞台に立てたのか
類従本系図では・・・頼弘―頼定―頼尚-頼典―光国―光秀としてお
り、宮城系図とは頼典以前も相違していますが、沼田藩主土岐家が所蔵す
る文亀2年(1502年)の「土岐頼尚譲状」によれば嫡子頼典が不幸を重ね
頼尚に敵対したため、頼典を義絶し、家産はすべて頼明(頼典の弟)に
譲るとなっているので、以後、頼典は浪人の身分になったと解釈されます
が、宮城系図ではこの頼典の位置に光継を置いているのは三宅氏による
仮冒系図を感じさせます。
類従本系図は頼典までは理解できるものの、光国―光秀と続けるのは
3代が浪人生活を続けていると想定されるのでかなり無理な設定と思わ
れ、また名乗りの点でも不自然ですので、頼典の後裔が歴史の表舞台に
立てたとは思えません。
また、「土岐頼尚譲状」によれば所領は土岐郡内に限られており、
明智城があったとされる可児郡の所領は見当たりませんので、このことか
らも明智光秀の時代の明智城の存在は否定されます。
(5) 宮城系図の骨格は信頼がおけるのか
入道の名乗りについて注目すると、光継が一関齋宗善、光安が宗寂、
光廉が長閑齋宗寛をそれぞれ名乗っていることからも、姻戚関係や事績
に誇張はあるものの光継以降の系図の骨格は史実であろうと思われます。
3.三宅系図の検討
(1)光俊の譜文に三河・梅ケ坪の記事がある
三宅系図は基本的に宮城系図と同じですが、嫡流しか書かれていませ
ん。
三宅家初代の藤兵衛重利の父親は光俊で、その譜文に興味深い内容が記
されていましたので以下に一部を引用します。
「天文六年丁酉九月十六日明智の城に生まれる、母は齋藤和泉守利胤の娘
也、始めの室は三宅大善入道長閑齋の娘、後妻は惟任日向守殿長女
秀子、後に於岸の方と申す 弘治二年の頃、齋藤山城入道道三の嫡男
斎藤義龍の為に明智の城滅ぼされし時、左馬助父兵庫頭父光安遺言に依
って明智の城を立ち退き(付札、朱筆)「光俊二十才」、三河国加茂郡
梅ケ坪 この時塗師屋の家に叔父三宅大善入道長閑齋とともに閑居し、
長じて長閑の娘を配して聟とせられしなり に閑居し、その後日向守殿
の許に来たり、二万石を賜り、天正十年丹波国桑田郡周山の城 周山と
は日向殿、亀山を改められし也 五万石を賜り、明智家の長臣たり
天正十年六月十五日江州志賀郡坂本城において生害、年四十六」
とあります。
ここで、叔父の三宅長閑齋(宮城系図では光廉を称す)とともに一時、
三河国加茂郡梅ケ坪の塗師屋の家に閑居したとあるのは重要な記述です。
三河国梅ケ坪とは田原藩主三宅氏の先祖の地で、梅坪城主をしていた
場所ですから長閑齋は田原藩主三宅氏と同族の可能性が濃厚です。
長閑齋光廉の姓が三宅なので、2人の兄である光綱、光安も当然三宅
姓であったはずであり、3兄弟の父の光継や光秀も三宅姓であったと考え
るのが妥当です。
(2)光綱が入道を名乗らなかった理由
光安の譜文に、「兄光綱死後、光秀幼少故に、父宗善入道の命に依って
光秀を後見し、明智の城に住し一家を治む、光秀成長の後、城を譲るべし
と申されしに、光秀固辞有り、よって終始明智の城に居る」とあるので、
光綱が早く亡くなったために入道名が無いのであり、この一文により光継
一族の実態が判明したのは参考になります。
4.おわりに
明智光秀が土岐明智一族である証拠は「立入左京亮入道隆佐記」や「遊行三
十一祖京畿御修行記」に光秀が明智十兵衛尉と称していたからだとされていま
すが、これは光秀がそのように言っていたのを真に受けて記載しただけとの
解釈も可能であり、証拠としては不十分ですので、本稿の検討結果より三河
三宅氏と同族とするのが妥当と考えます。
光秀の出世の第一歩は越前の戦国大名・朝倉義景の信頼を勝ち得たからだ
と思われ、それは本姓の三宅ではなくて越前にも名が知れた土岐明智姓を名
乗り、「三河三宅氏」の稿で指摘したように、三河三宅氏の本城の広瀬城主
に朝倉義景の甥の高清を送り込むことに成功したからではないでしょうか。