1. はじめに
7世紀の倭と日本に関する中国の正史の記述は変化に富んでおり、倭と日本の2国が列島に同時期に存在していたのか否かについては諸説がありますが、その他の点を含めて中国側がどのように列島の歴史を理解していたのかについて推測してみたいと思います。
投稿者: 管理人
秦王国とは
1. はじめに
『隋書』俀国伝の大業四年(608年)に裴(世)清が竹斯国から東に向かい
秦王国に至ったという記事があり、この秦王国がどこにあったのか、または誤
伝なのかについては諸説があるので、主要な説を概観すると共に、以下に思う
ところを述べてみたい。
古代の宗像氏とその周辺
1.はじめに
福岡県にある宗像大社(以下、宗像社という。)の奥宮が玄界灘の沖ノ島にあり、この島から「海の正倉院」と呼ばれるほどの多彩で貴重な品々が発見され国宝に指定されていますが、4世紀後半に始まったとされるこの祭祀を神官の宗像(胸肩、胸形、宗形とも称する)氏が単独で行ったとするにはその目的と必要な財力からして疑問であり、宗像氏がヤマト王権の国家祭祀の一翼を担ったものとするのが通説です。
『宋書』倭国伝の司馬曹達について
1.まえがき
『宋書』倭国伝の元嘉二年(425年)条にある倭王讃の朝貢の使者の司馬
曹達について、任那日本府で現地採用された官職名が司馬を名乗る中国系の
人物であり、倭讃の使者として宋に上表文、そして曹達の発案・進言により
高句麗で得た方物を届けたとする意見もありますが、これには疑問な点があ
りますのでそれを記すと共に、別の解釈を提示してみたいと思います。
出雲の久野氏
出雲の久野氏がいつから久野姓を名乗ったのかは不明ですが、網野善彦著『日本中世史料学の課題』に京都府福知山市の桐村家が所蔵する大中臣氏略系図が紹介されていまして、常陸国新治郡を東、中、西に分割した時の中郡(茨城県桜川市)の郡司を勤めたのが藤原摂関家の流れをくむ上総介頼継としており、この子孫の中郡経元が承久の乱における戦功で出雲国久野郷の地頭職が与えられたとされており、中郡重経の子孫が出雲に下ったのではないかと考えられています。
“出雲の久野氏” の続きを読む平姓久野氏
『寛政重修諸家譜』の平氏支流には、寛永10年(1633年)に旗本となった久野孝知を初代とする久野家が掲載されており、家紋は丸に六柏、瓜に内巴の二種類となっていますが、孝知以前の系譜は不明です。
“平姓久野氏” の続きを読む名古屋系図
尾張藩久野家の系図では尾張藩久野家初代の吉章(吉政と書かれている資料が多い)まで記載されています。
この系図には、紀州藩久野家初代の宗成や、岸和田藩久野家初代方明の父である宗茂も記され、このような系図となったのは、各家が情報交換をした結果だと考えられます。
みよし市久野家の先祖
愛知県三好町発行の『三好町誌』によれば、三好町新屋の久野氏は遠江国の久野の里から転住すると書かれており、久野鋹谷は寛永5年(1628年)2月に三好上の鯰という所から移ってきたそうです。
“みよし市久野家の先祖” の続きを読む笠間市久野家の先祖
笠間焼の祖である久野半右衛門(1701~1782年)は、笠間藩領茨城郡箱田村の名主の家に生まれ、実名を道延と称し、久野家の祖は駿河国今川氏の家臣であったが、のちに下野国宇都宮氏に仕え、主家没後は箱田村に土着したと伝えられており、安永年間(1772~1781年)、近江国信楽の陶工長右衛門に陶器製法を教授され試作したのち、屋敷内に登窯を築いて長右衛門とともに制作に努め、長右衛門が去ったあとには婿養子の瀬兵衛益信を信楽へ赴かせ陶工吉三郎を招き陶業に腐心したと『茨城県大百科事典』には紹介されています。
“笠間市久野家の先祖” の続きを読む備中土岐(浅野)氏
岐阜県瑞浪市に本部がある美濃源氏フォーラムの『’96美濃源氏土岐氏研究講座 講義録』で岡山県笠岡市の土岐嘉允氏が発表された「備中の一土岐氏について 起源と系譜の考察(第一部)」から、備中・浅野氏の同族と思われる備中・土岐氏の系図情報について当主を時代順に列記してみました。
“備中土岐(浅野)氏” の続きを読む