下の図は、以前静岡市に住んでおられた沼館愛三氏が作成された久能城址見取図です。
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久野宗政とその周辺
遠江久野家の永禄騒動
1. 永禄12年(1569年)1月に起きたいわゆる遠州久野家の永禄騒動には諸説がありますが、この事件が記録されている書物の中で最も信頼がおけると思われる江戸時代の地誌『三河後風土記正説大全』をベースに、この時既に徳川方の不意討ちにより亡くなっていた淡路守宗益と、宗益の子で宗益討ち死に時に武田方へ走り、久野城にはいなかった日向守宗一の二人を永禄騒動に登場させる訳にはいかないので修正を加えて表にしてみました。
“遠江久野家の永禄騒動” の続きを読む出雲国造家系図の信ぴょう性
1. はじめに
3世紀前後の時期の大型四隅突出型墳丘墓としては、島根県出雲市の西谷古
墳群の2号墓、3号墓、4号墓、9号墓が、また島根県安来市の塩津山墳墓群の
6、10号墓が知られ、弥生時代後期には出雲地方の東西に大きな政治勢力が
形成されていたものと考えられています。
稲荷山古墳出土鉄剣銘文の氏族について
1.はじめに
埼玉県行田市の埼玉古墳群には、かつて大小40基ほどの古墳が造られた
ことがわかっており、出土した遺物から5世紀後半から7世紀初め頃までの
約150年間に次々と造られたと考えられています。
この古墳群の1基の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘文の8代の
氏族について、既に有益な内容の書籍もあると考えられるので、それらを
踏まえて銘文の氏族を考察します。
松野連姫氏系図の信ぴょう性
国会図書館が所蔵する『諸系譜』第2冊に所収の松野連姫(まつののむらじき)氏系図は明治時代の系図研究家であった鈴木真年が収集した系図であると言われており、呉王夫差を初代とし、その末裔には『日本書紀』の景行天皇の熊襲討伐の段に登場する厚鹿文、迮鹿文、市乾鹿文、市鹿文が記述され、さらに『魏志倭人伝』に登場する伊馨耆が記載されると共に、倭の五王(讃、珍、済、興、武)が登場するという古代史上の有名人のオンパレードの様相を呈していまして、とても史実とは思えません。
“松野連姫氏系図の信ぴょう性” の続きを読む家康の不意討ち
「岸和田藩久野家文書」によれば、永禄11年7月25日に遠州久野城主(一説に三鹿野城主)の久野淡路守宗益が徳川方に不意討ちされ、これを契機に遠州久野一族は徳川陣営に組み込まれていったと考えられます。
“家康の不意討ち” の続きを読む桶狭間の合戦と久野(久能)氏
下の表は『駿河志料』に所収の「桶狭間殉死の士」から引用しました。
また明治31年に陸軍参謀本部編として刊行された『日本戦史 桶狭間役』では今川方として討ち死にした人物として久能半内氏忠が、また今川方として討ち死にしなかった人物として久野弾正(実名は不詳)がリストアップされており、久野(久能)氏関連ではこの二人だけが確認できます。
稲員家系図はどこまでが史実なのか
1.はじめに
福岡県久留米市にある筑後一宮の高良大社の御貢所職であり、また神官領家を称して八人神官を指導し、近世では大庄屋であった稲員(いなかず)家に伝わる系図は、ネットではこの系図は九州王朝の根本史料ではないかとさえ言われているものであり、非常に興味深いものなのですが、5世紀の内容を含むとなると、誰が、何時、何の目的で作成したのか素朴な疑問も浮かんできますので、系図の周辺状況などからどこまでの年代を史実ととらえることが可能なのかを中心に探ってみたいと思います。
遠江久野氏は工藤祐経の後裔か
工藤祐経は源頼朝の寵臣であり、また所領争いから曾我兄弟の仇討ちにあったことで有名ですが、袋井市下山梨の久野氏系図では、
工藤祐経―祐時―祐朝―祐光―祐宗―宗仲―忠宗―清宗―宗継―国継―清元―宗司―宗則―宗種―宗清―宗隆
と人名が繋がっており、宗清を「工藤遠江守、工藤左衛門尉祐経十四代の孫なり」とし、宗隆を「久野氏元祖、工藤遠江守宗仲十代の孫」としています。
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