「岸和田藩久野家文書」には、文化4年(1807年)に小浜藩士久野重三郎直方が岸和田藩久野家に提出したと思われる系図があり、これには「本国三河」として藤原秀郷の末裔を称し、宗能以降の系譜の概略は系図1の通りです。
“小浜藩久野家の先祖” の続きを読むカテゴリー: 久野氏
駿河久野氏と大野城主佐治氏の関係
三河今橋(吉田)城主であった牧野古白の後裔に牧野正成なる人物が『寛政重修諸家譜』に見え、次のような注記がされています。
“駿河久野氏と大野城主佐治氏の関係” の続きを読む遠江久野氏の居住地・鵯山はどこか
久野城址保存会発行の『久野城物語り』によれば、遠江久野氏の居住地の鵯山は「静岡県袋井市国本字鵯山、現袋井市立東幼稚園、雇用促進住宅一帯と思われる。」となっていますが、江戸時代の絵図を見てもこの一帯の山中に平地らしきものは存在しません。
“遠江久野氏の居住地・鵯山はどこか” の続きを読む『諸士伝略稿』にみる久野氏
『諸士伝略稿』とは尾張藩士で長沼流兵学家の中山和清(1765~1829年、通称七太夫、号荘伯)が書いた尾張藩士の列伝とでも言うべきもので、原本は名古屋市鶴舞中央図書館に所蔵されています。
“『諸士伝略稿』にみる久野氏” の続きを読む久野清兵衛栄邑は駿河浅間神社の神主だったのか
小和田哲男著『今川氏の研究』という本に天正十五年三月七日付の「新宮神主浅間社領屋敷銭書上ゲ」と題する文書が紹介され、この文書の記録によれば年月の最後に「此帳ハ天正十四戌年府城修築ニ依テ上地セシ時ノ記ナリ御曲輪又武家邸トナレリ」と注記があります。
“久野清兵衛栄邑は駿河浅間神社の神主だったのか” の続きを読む駿河久能城址見取図
下の図は、以前静岡市に住んでおられた沼館愛三氏が作成された久能城址見取図です。
“駿河久能城址見取図” の続きを読む久野宗政とその周辺
遠江久野家の永禄騒動
1. 永禄12年(1569年)1月に起きたいわゆる遠州久野家の永禄騒動には諸説がありますが、この事件が記録されている書物の中で最も信頼がおけると思われる江戸時代の地誌『三河後風土記正説大全』をベースに、この時既に徳川方の不意討ちにより亡くなっていた淡路守宗益と、宗益の子で宗益討ち死に時に武田方へ走り、久野城にはいなかった日向守宗一の二人を永禄騒動に登場させる訳にはいかないので修正を加えて表にしてみました。
“遠江久野家の永禄騒動” の続きを読む家康の不意討ち
「岸和田藩久野家文書」によれば、永禄11年7月25日に遠州久野城主(一説に三鹿野城主)の久野淡路守宗益が徳川方に不意討ちされ、これを契機に遠州久野一族は徳川陣営に組み込まれていったと考えられます。
“家康の不意討ち” の続きを読む桶狭間の合戦と久野(久能)氏
下の表は『駿河志料』に所収の「桶狭間殉死の士」から引用しました。
また明治31年に陸軍参謀本部編として刊行された『日本戦史 桶狭間役』では今川方として討ち死にした人物として久能半内氏忠が、また今川方として討ち死にしなかった人物として久野弾正(実名は不詳)がリストアップされており、久野(久能)氏関連ではこの二人だけが確認できます。