「岸和田藩久野家文書」は静岡県袋井市立袋井図書館に所蔵され、系図や系図の基になった資料なども集められており、遠江久野氏の初代久野城主であった宗隆以降の内容についてはほぼ正確であり、遠江久野氏を代表する系図であると思います。
この久野家の初期段階の系図では、「工藤遠江守時憲から宗隆までの約三〇〇年間の系譜中絶す。久野城主佐渡守宗隆に至りて久野を以て氏とす。是久野の祖ナリ。」と書かれていますので、久野宗隆以前の系譜は後で無理やり追加した感じは否めません。

久野宗清とは、掛川市域の原氏第12代原遠江守頼景のことです。
資料では宗清のところに原之野城主で原殿を称すると書かれており、この宗清は久野氏から原氏に婿入りした人物なのでしょう。
宗徃と宗清は系図を見ると親子のようにみえますが、実は兄弟で、宗徃が家臣の沖津(興津か)七郎に討たれたので、宗徃の子の宗隆は宗清に育てられたと資料に書かれています。
『掛川市誌』によれば、掛川市上垂木の雨桜牛頭天王(雨桜神社)に永正十一年(1514年)八月に鋳造した洪鐘に大檀那興津濃州守久信らの名前が見えるとありますから、久野宗隆が久野城主になった後も掛川市域に興津氏が居住していたようです。
また久野光憲については別系統に属する人物ながら、掛川城主で掛川殿を称すると資料に書かれていますから、宗清が久野氏から原氏に婿入りした例と同じと考えれば、掛川氏に婿入りした人物の可能性が考えられます。
この時の掛川城主は今川氏の重臣であった朝比奈泰煕(~1512年)のことと思われ、久野光憲=朝比奈泰煕となる訳ですが、朝比奈氏関連の資料では確認できません。
なお系図の基になっている資料の中で久野祐憲が掛川本丸城代と記されているのは大変興味深いことです。それは祐憲が将監を名乗っていることで、永禄十二年正月の永禄騒動で宗能に敵対した人物に久野将監の名前がみえることから、久野祐憲は光憲が掛川城主になった縁からか、掛川城に逃げ込み、その後に掛川本丸城代の地位に就いたと考えられるからです。
さらに資料では宗徃以前の人物の事績は、時憲を除いて一切書かれていませんので、宗徃以前の系譜は不明ながら、遠州久野氏一族には原氏や掛川氏との姻戚関係が鮮明に記憶されていたものと考えられます。
久野時憲は工藤遠江守を称し、「北条貞時城入道合戦時於片瀬川顕武功」とありますので、これは弘安八年(1285年)に平頼綱が安達泰盛を滅ぼした霜月騒動での活躍を記したものですが、この活躍が「加木屋系図(分家)」の項で記述した乙蔵丸に中尊寺経蔵別当職が譲られた契機と考えるならば、時憲が久野四郎兵衛入道その人であったことになります。
ここで本系図に出て来る時憲、清憲、光憲、定憲、祐憲の五名は憲を通字としており、宗を通字とする人物とは別系統だった可能性があります。
文明八年(1476年)から十年(1478年)及び明応三年(1494年)から六年(1497年)の今川氏と原氏との間の戦乱で、原氏に従っていた遠江久野氏の出自に関する資料が散逸した結果、このような宗隆以前に不明点の多い系図になったものと考えます。
いずれにしても、遠江久野氏が代々、今川家臣であったという通説には根拠がありません。
なお、浅羽本久野氏系図には文明八年(1476年)に静岡県菊川市域の塩貝坂で討死したとされる清憲の甥に、永禄三年(1560年)の桶狭間の合戦で討死したとされる三郎四郎宗忠が出てくるという年代の矛盾が見られ、宗仲から宗能までの系譜は断片情報を繋ぎ合わせた、全体的に見て信用のおけないものであると考えられます。
特に岸和田系図関連で興味深い事項としては、庶流の久野宗能が久野城主になった経緯が窺えることです。
すなわち、系図の基になった資料によると、永禄三年の桶狭間の合戦で久野城主であった久野宗経が二十一歳で討死し、子供が女子一人であったため、久野宗重と宗経の舅、島田弾正忠秀隣が相談して久野宗重の次男、僧伯瑞を還俗させて久野宗能と名乗らせ、更に宗経の妻女と一緒にさせて宗経家を継いだそうですが、親族の中にはこれを悦ばない者が多かったため、久野定憲の弟の久野宗憲が久野城主になったとあります。
その後、久野宗憲の子である久野宗益が久野城主を継ぐ訳ですが、この宗益が徳川方に闇討ちにされたのが永禄十一年七月ですから、久野宗能が久野城主になったのはそれ以降ということになります。
袋井市立袋井図書館に所蔵の「紀州藩久野家文書」では、久野城主の久野元宗が桶狭間の合戦で討死したため、弟の宗能が跡を継いで久野城主になったとする記録があり、この記録が諸本で引用され通説になっている訳ですが、幕末の頃の紀州藩家老であった久野純固は自家の系図に久野城主の宗隆が出てこないのを不審に思い、家臣の犬塚正雄に遠州で調査させ、遠州には久野宗隆の後裔を称する家があることを確認していることからも、真相はこの「岸和田藩久野家文書」に書かれていた内容だったのではないでしょうか。