遠江久野城は掛川市と森町の間に割り込むように南北に走る宇刈丘陵の南端、標高34㍍の袋井市域の台地に築かれ、城域中央の最高部が本郭で、東西35~85㍍、南北百㍍のほぼ三角形の曲輪です。
平成20年11月に開催されました「久野城まつり」で配布の久野城址公園整備計画の資料がもっとも城址の様子がよく分かる図面だと思いますので掲載しておきます。

いつ頃から久野城と呼ばれたのかは分かりませんが、今川氏親が本間宗季に与えた永正7年(1510年)の軍忠状写では蔵王城となっていますが、これは近くに蔵王権現社(現在の六所神社)があったことから名付けられたものでしょう。

この軍忠状写の最初の項目が文亀元年(1501年)と想定される今川氏親判物に対応しているものと思われますが、蔵王城関連では藤田鶴南編『戦国史城 高天神の跡を尋ねて』の「本間八郎三郎氏清 丸尾修理亮義清の兄弟」の項で、本間家は氏季の子良清、永享12年(1440年)足利持氏に従い殉死し領地を没収された。長子辰若十一歳、逃れて駿河の今川氏に頼り長じて遠州久野城番になったとありますから、本間氏は宗季より以前の辰若の時代に久野城(蔵王城)の城番であり、本間氏の寄親であり今川氏の重臣でもあった高天神城主の福嶋(くしま)左衛門尉助春が久野宗隆以前の蔵王城主を兼ねていたものと考えられます。

そうであれば、福嶋氏の後に城主となった久野宗隆が信州勢に攻められた時、蔵王城を熟知していたであろう元城番の本間氏が救援に駆け付けたという本間宗季軍忠状写の内容は納得できるものです。
のちの時代の久野宗能の家臣に本間政季らがいますが、本間氏とは久野宗隆の時代から旧知の仲だったのでしょう。
ところでお城にまつわる話として、今川氏領国においてはこれまで使ってきた城主という言葉が正確ではないという意見が出ています(有光友學著『戦国大名今川氏と葛山氏』)。
これは久野城においても例外ではない訳ですが、この本によれば、今川氏領国においては、後北条氏におけるような「支城主」とか「支城領主」といった本来の大名が持っている領域支配権を有した職掌は考えられないということであり、同時代の史料においては、「城代」以外の、例えば城主とか城守といったような文言は見られず、今川氏領国においては、「城代」が、城将を示す唯一の名辞であったといってもよいとありますから、明応年中(1492年~1501年)に久野城主になったとされる久野宗隆は、正式には蔵王城代・久野宗隆と訂正すべきなのでしょう。
この城代という言葉は、愛知県常滑市の大野城にいた今川義元家臣の久野氏の後裔の方から、先祖は大野城代家老であったという証言があり、有光友學氏の説を補強するものです。
ではなぜ掛川市域の領主原氏に属する久野宗隆が蔵王城代になったのかですが、明応6年(1497年)に北条早雲が率いる今川軍によって原氏が没落したとされているので、これを機に今川氏親から蔵王城代に抜擢されたのではないかと推測しているところです。
また、「岸和田藩久野家文書」の宗隆の箇所には、「新築城於久野庄而居馬自是以来六世相継為久野城主故称久野中興祖 一本久野庄鷲巣城主云々 鷲巣城蓋宗隆之所新築歟」となっており、宗隆は久野城主であったが、別本では鷲巣城主とあり、鷲巣城も宗隆が築城したものか?と書いている訳ですが、現在の久野城址のある所が鷲巣の地名ですので、宗隆の時代の久野城とは、当時一族が居住していたとされる鵯山(久野城址の南東約1kmの場所)のことだった可能性があります。
『大日本地名辞書』の久野城址の項では、「甲陽軍鑑云、元亀二年二月、信玄公高天神を引揚、ヲタガ松それより柴が原、それより鷺坂、宮口まで焼働、久野、懸川へ押寄、御巡見の時、久野の城ヒヨドリ山にて、小幡上総介兄弟名誉の殿也。」とあり、鵯山に久野氏の拠点があったのでしょう。
従って、現在の久野城址にあった久野城(別名:蔵王城、鷲巣城)は今川氏が遠江侵攻の為に築いた駿河の今川氏の城であり、その家臣の福島氏や久野氏が城代を務めていたと解釈されます。 そして久野氏が名実ともに久野城主となったのは今川方の久野宗益が徳川方に闇討ちにされた永禄11年7月以降のことでしょう。