岩国藩士時代に大田姓を名乗っていた久能氏は、幕末の頃藩に提出した系図(岩国徴古館所蔵)によれば、「源姓 紋所 丸之内ニ角重 清和源氏満政三代之孫佐渡源太重実六男六郎重近駿州ニ隠テ久野与市ト改 久能氏書候」とありますが、『尊卑分脈』では重近の箇所には官位などの記載はなく、子供の記載もありません。

重近は美濃源氏なので、なぜ美濃から駿河に移ってきたのかは不明ですが、系図の作成時点で先祖が分からなかったので、美濃源氏に結び付けた可能性も考えられます。
氏祖が久野与市なのにどうして久能姓になったのかの説明がないのは、系図作成時点で本当の氏祖情報を持っていなかった結果でしょう。
この系図での注目点は初代の重政の箇所で、駿河武士の吉川友兼が梶原景茂を追討時に御供したとのことです。
名古屋系図では久野新六郎信俊の箇所に「月見里合戦時討死」との記述があり、これは静岡市清水区のほぼ中央にある月見里笠森稲荷神社付近で梶原景時らとの合戦があったことを示しており、上記の梶原景茂追討の話を考慮すれば、駿河の久野(久能)氏が一族を挙げて梶原景時、景茂らの討伐に参加したのでしょう。
もう一つの注目点は新治(次)郎重連が播州蟹ヶ坂合戦に参加したことではないでしょうか。
福岡県立図書館蔵の赤松久野(ひさの)系図によれば、初代を赤松則重とはしているものの、その次からは久野重敬―重誠―重勝―重時と続きますので、この久能氏と同様に「重」を通字としており、久能重連が播州蟹ヶ坂合戦に参加となれば、嘉吉元年(1441年)8月24日、26日の両日、赤松満祐追討のため播磨に入った細川持常を総大将とする大手軍と赤松勢との間の人丸塚・蟹坂(現明石市)での合戦のことですから、久野重敬は久能重連の兄弟かもしれず、何らかの縁で播州にとどまった可能性は否定できないものと考えます。
ということで、以前の考察でひさの氏は嘉吉の乱の論功行賞で赤松氏の備前守護職が没収されて伯耆守護・山名教之に与えられたため、山名教之配下の小鴨氏が備前守護代となって伯耆から備前にやって来た時に随行し、その後も備前や播磨にいた名古屋鳴海久野家の後裔ではないかと考えていたわけですが、今回の考察の方が正しいのかもしれません。