江戸時代の地誌『駿国雑志』には次のような秦久能による久能寺の建立と行基の手になる千手観音立像を安置する様が書かれています。
「昔、聖武天皇の御宇、秦川勝が二男、尊良の子、久能と言うもの、山に入りて獣を狩けるに、海辺近き所に古き杉の樹より、光ありて朝日のごとし、久能あやしみ人をして射落させ見れば、長さ五寸ばかりの閻浮檀金(えんぶだこん)の千手観音の像也。久能是を奇として、山中に寺を建、像を安置しけり。ある夜の夢に、老僧来て久能に告て曰く、我は補陀落山よりここに来れり。善かな汝、我を安置することよ、我能衆生を度せんのみと、夢覚て霊感をしるせり、因て補陀落山と云寺を建、久能寺と名づけり。其後行基ぼさつ此山に入て、古き楠を伐、千手の像七躰を刻み、かの五寸の像を新刻の像の胸に納けると也、七躰各七ヶ所に安置す。」
七ヶ所とは久能寺、霊山寺、建穂(たきょう)寺、法明寺、徳願寺、増善寺、平澤(へいたく)寺の七寺です。
さて、秦久能が狩をしていた山は久能山近辺のはずです。昭和30年代に静岡県立藤枝東高校の郷土研究部の生徒達が、日本平北斜面において縦6㎝、 横3㎝の頁岩のポイントすなわち石槍を採取したことから、有度山が縄文人にとって鹿や猪などの大型の野獣を追いかけるのに良い狩場であったことを物語るものといえよう、とされていることから(『清水市史』)、秦久能の狩りの話も荒唐無稽ではないようです。
また、昔の久能寺へ至る参道は日本平方面からであったとされ、平澤寺経由や妙音寺(現在の鉄舟寺)経由で登り、日本平から南の久能寺へ参拝に来たことは、正平6年(1351年)に中賀野掃部助・入江駿河守が今川範氏勢との戦いに敗れ、駿府を捨てて久能寺城に逃れた話から確実のようです。
加木屋系図に「草薙山小鹿山久能山共ニ相連リ」と書かれているのは正に昔の参道を思い描いたものかもしれません。
さて、秦久能や久能寺の年代に関連する事項ですが、加木屋系図(本家)の冒頭には「秦川勝ノ孫尊良末久能筑紫大嶋住亦珠流河国草薙山住」と書かれており、秦久能が草薙山に住む前は筑紫大島(福岡県宗像市大島)に住んでいたとされていますから、秦久能が秦河勝のひ孫とするならば、秦河勝が生きた年代は6世紀後半から7世紀前半ですから、秦久能はその3世代後なので、世代間の年齢差を30年とすれば90年後となり、『駿国雑志』が言うように、秦久能が聖武天皇(在位724~749年)の時代の人物であったとするのはほぼ妥当ではないでしょうか。
また、久能寺の千手観音立像は、京都国立博物館の調査結果によれば奈良時代の8世紀から、遅くとも平安時代初期の9世紀初めまでに製作されたものとされ、行基(668~749年)が作ったものかは不明(行基あるいは行基集団が作ったとする説もある)ですが、久能寺の草創にまつわる話はほぼ時代的にも整合しているものと思われます。

さらには、『久能山叢書』の稲荷神社・厳島神社合殿の項では『総国風土記』からの引用で、「玖乃或久能稲荷神社神護景雲三年巳酉正月初祭之」とあり、神護景雲三年とは769年ですから、秦氏が奉祭する稲荷社をも秦久能が久能山の地に建てた可能性が考えられます。
8世紀後半には寺院に関係のある神を寺院の守護神、鎮守とするようになった、いわゆる神仏習合がみられます。
東大寺には大仏建立に協力した宇佐八幡神を勧請して鎮守とし、興福寺は春日大社、延暦寺は日吉大社、金剛峰寺は丹生神社、東寺は伏見稲荷大社などいずれも守護神を持つ事になったようで、久能寺の場合も康平5年(1062年)正月日の年紀をもつ十二所権現勧請札が残されていることから、同様に守護神がいました。
加木屋系図では、長元四年(1031年)の出来事として三所神社(祭神は天照大神、八幡神、久能神)に参拝して願書を奉納したと書かれており、この久能神は「我祖」と記されていますので、天皇家の始祖神である天照大神や八幡神と共に秦久能は久能(久野)氏の先祖神として永く祭られていたのではないかと思われます。
さて、久能伝説が伝播したと思われるものとして、千葉県富里市のHPに「潮音寺の観音(ちょうおんじのかんのん)」と題して次のような解説が載せられています。
「昔、大同年間駿河国有郡有渡山のふもとに、都築刑部久能という人がいた。猟を好み日々有渡山に入っていたが、ある日不思議にも山中にて観音尊像を得た。喜んで家へ帰って山中に小堂を作り、これを安置して年久して祈願していた。後都築久能その祖先の地である下総国久能に来て住んでいたが、観音の尊像に対する崇敬思慕の念止み難く、これを村老に謀り共に一小堂を建ててここに遷し、傍らに草庵を作り一僧を置いて香華供養をしていたが、これを信仰帰依するものが次第に多くなり、霊験もまた著しかったので、荘厳なる堂宇を建立し、更に一寺を建てゝこれを潮音寺と称したということである。」
伝説の伝播が久能(久野)氏の富里市久能への移住を伴ったものかは不明ですが、居住地の地名を負った氏族が、構成員が増えて居住地を拡大するにつれて、別の土地に同名の地名を形成する例はあったようですから(丹羽基二著『日本人の苗字』)、駿河国久能と何らかの関わりがあったものと考えられます。
加木屋系図(分家)の久能大膳藤原季善の箇所に「上総忠常党と讒訴され伊豆へ遠島」と言う一文がありますが、これは上総介忠常の配下に久能氏がおり、駿河の久能氏も一味であるとみなされたとも解釈できます。