家康の不意討ち

 「岸和田藩久野家文書」によれば、永禄11年7月25日に遠州久野城主(一説に三鹿野城主)の久野淡路守宗益が徳川方に不意討ちされ、これを契機に遠州久野一族は徳川陣営に組み込まれていったと考えられます。

 これは家康が天下を取るためにした悪徳行為の一つに数えられる出来事ではないかと思われますが、以下に「岸和田藩久野家文書」の一節から引用します。

「今川氏真卿駿州没落ノ後家康公浜松ニ御居城ノ時宗益ニ降参スヘシトノ御諚有シカトモ同心セサリシカ其後互ニ和睦タルニヨリ家康公天竜川ヲ隔テ宗益ニ御対面アルヘシ双方随兵五騎宛ト約諾アリ宗益既ニ中泉ノ宿マテ出馬セシ処ニ家康公本多淡路守(一説ニ榊原小平太康政)ヲ討手ノ大将トシ海辺ヨリ勢ヲ出シ不意ヲ撃セ給フニヨリ宗益ハ討死シ・・・ 」

 このように明確に徳川方に不意討ちされたことが書かれている訳ですが、「岸和田藩久野家文書」にはさらに、「本多越前守殿覚書ニ久野ノ勢ヲ討捕久野城番被仰付候也」の記述が付記されています。 

 本多越前守とは本多利長(1635年~1693年)のことで、本多利長の先祖の本多豊後守廣孝(前出の淡路守は誤記と思われる。)の『寛政重修諸家譜』の項には永禄12年以前に、「大権現遠州をおさめたまふといへども、なを久野の城に謀反人あり。此時廣孝仰せをかうふりてこれを誅す。」と書かれていることから、宗益を討ったのは本多廣孝だと思われます。

 その後の経緯はよく分かりませんが、不意討ちから約五ヵ月後の永禄11年12月21日付で徳川家康から所領安堵状が出され、この時の宛先が「久野三郎左衛門殿一門同心衆」となっており、この宛先から想像すると、遠江久野家は依然として複雑な権力構造の中に置かれていたのかもしれません。

 すなわち、久野宗能は桶狭間の合戦で討ち死にした宗経の跡を継いでいるので、遠州にはある程度の所領を有していたはずであり、また駿河久野家も継いでいたとするならば、先の安堵状の土気(川根本町久野脇に比定され、「セイベイ屋敷跡」の項で論じた久野清兵衛義尭以来の駿河久野家の所領と推定。)と岡部(藤枝市岡部町に比定され、駿河久野家の古くからの所領と推定。)も宗能の所領と考えることが可能であり、安堵状の残りの土地は以前から遠江の久野一族が領有していたので、一門同心衆という宛先にしたと解釈できます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA