遠江久野氏の居住地・鵯山はどこか

 久野城址保存会発行の『久野城物語り』によれば、遠江久野氏の居住地の鵯山は「静岡県袋井市国本字鵯山、現袋井市立東幼稚園、雇用促進住宅一帯と思われる。」となっていますが、江戸時代の絵図を見てもこの一帯の山中に平地らしきものは存在しません。

 ところで、岩井良平著『三方原の戦と小幡赤武者隊』(文芸社)によれば、『武田三代軍記』からの引用で、「久能の縄手に赴き給ひ、久能の城を巡検し給う。此時、小幡上総介信定・舎弟弾正信氏後殿を承り、鵯山に押し上り、奇妙の備を以て、城兵を押へしかば、城中より、一騎も打出づる事能はず。信玄、安々と城下を押通り給ひけり。」とあります。
 また、『甲陽軍鑑』や『甲陽軍鑑大成』からの引用で、「信玄公、未ノ三月、高天神へ初而御はつこうの時引ぢんに、をたが松、それより宮口迄、やき働キ被レ成、久野・懸川へをしよせ、御じゆんけんをあそばし候時、久野ノ城ひよどり山ニて、小幡上総守様子、めいよのしんがりの仕様、信玄公御ほうび也。」とあります。

 岩井氏は『武田三代軍記』の「奇妙の備」とは、一手騎乗武者50騎(あるいは、それぞれ騎乗武者と従者合わせて3人、計150人)のみの備えであったのかもしれないとしており、久野城から「奇妙の備」を観察できるのは、久野城の北東約600mの山裾辺りであり、この山のことを鵯山と呼んでおり、ここが久野一族の居住する屋敷群の所在地(『久野城物語り』第九章の御屋敷が該当)ではないかと推定されています。

 『久野城物語り』の御屋敷とは、久野城最後の城主北条氏重の家老・堀内隼人重勝が住んでいた屋敷があった場所で、現在の袋井市村松にある金錫寺の東の村松下公会堂がある一帯であるとされていますので、村松下公会堂を含む道路で丸く囲まれた場所ではないでしょうか。

 そうであるならば、戦国時代の鵯山とは袋井市国本字鵯山ではなくてこの御屋敷一帯の山であり、この場所が鎌倉幕府の御家人で村松の領主であった東西谷五郎の邸宅跡であり、後に蔵王(久野)城番の本間氏、さらに久野宗隆以降の久野一族などの久野城に関係した氏族が順次入れ替わって居住していたと仮定することも可能なように思われます。

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