熊本藩久野家の先祖

 熊本(細川)藩久野家については、「肥後細川藩拾遺」というHPを開設されている方から細川家に伝来する資料などを集めた永青文庫の「先祖附」という家臣団関係の資料を紹介頂き、その資料によれば家祖の久野次郎左衛門は尾張出身で、旧主は佐久間右衛門(信盛)であることが分かっています。

 熊本藩久野氏後裔の久野様からは、「初代久野次郎左衛門について詳細は不明で尾州または江州の出身であったという記述と佐久間信盛から推薦されて細川忠興に仕え元和4年頃筑前、その後寛永9年12月9日に細川忠利と共に肥後に入国、その後福岡県と熊本県の県境にある南関町(福岡県側から見た南の関所)の関所に勤め、寛永15年の島原の乱に参戦、そのときに鉄砲の弾を三カ所に受け(特に右肘の傷がひどかったようで)その傷がもとで6年後の寛永21年(1644年)6月26日に亡くなったようです。」との情報をいただきました。


 また家紋については、「紋所ハ三ッ鱗ナリシヲ御国ニ召出サレテ後大家ニ同紋有リ故ニ三ッ鱗紋形二ツ合セ竹割菱ト名付用イル」としたそうですから、尾張出身で名乗りが次郎左衛門、家紋が「三つ鱗」であったことから、この氏は名古屋市の鳴海系久野家の出身であることは間違いありません。
 桶狭間の合戦後に織田信長方の佐久間信盛が鳴海城主となっていますから、鳴海城の近くに住んでいたことがきっかけで佐久間信盛に仕官したのかもしれません。


 佐久間不干斎正勝(信盛の子)が熊本藩の久野次郎左衛門に宛てた書状二通の写しの内、二通目の最後の方に「甚九郎も無事」と書かれていますので、『寛政譜』に佐久間正勝の子として甚九郎なる人物が見えることから、甚九郎は久野家から佐久間家へ養子に入った人物と考えますと、佐久間不干斎が無事であることを久野次郎左衛門に報告したのも納得できます。

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