笠間焼の祖である久野半右衛門(1701~1782年)は、笠間藩領茨城郡箱田村の名主の家に生まれ、実名を道延と称し、久野家の祖は駿河国今川氏の家臣であったが、のちに下野国宇都宮氏に仕え、主家没後は箱田村に土着したと伝えられており、安永年間(1772~1781年)、近江国信楽の陶工長右衛門に陶器製法を教授され試作したのち、屋敷内に登窯を築いて長右衛門とともに制作に努め、長右衛門が去ったあとには婿養子の瀬兵衛益信を信楽へ赴かせ陶工吉三郎を招き陶業に腐心したと『茨城県大百科事典』には紹介されています。
確かに後掲の笠間市立図書館に所蔵の系図でも今川氏の家臣であったことは分かるのですが、箱田村久野氏の祖である道正の父宗清が遠州久野各家の系図には出てこず、また道正の祖父八右衛門宗忠が桶狭間の合戦で討ち死にした久野半内氏忠の子供であったという記述も、宗忠が桶狭間の合戦当時は55~60歳頃であったことを考えると、氏忠がこの合戦に参加するには無理な年齢になってしまいます。

笠間久野氏系図(1/2)

笠間久野氏系図(2/2)
宗清が刑部左衛門を称し、宇都宮弥三郎の家臣であったことに注目すれば、「小浜藩久野家の先祖」の項で出てきた久野刑部左衛門宗国と同一人物の可能性も考えられます。
また、系図では遠州久野家の通字である「宗」の実名が多く出てくるのは納得できるのですが、笠間焼の家は「道」を通字としており、違いをみせています。
系図の下書きには道正の三人の子の定紋が記載されており、長男の宗員は「九曜」、二男の宗康は「桔梗」、三男の道邦は「唐花」であり、実はこの三人の出自は異なっているが、三人を道正に繋げた系図にしてしまった可能性も考えられます。
一方、江戸時代に浜松藩主井上河内守の家臣であった久野三太夫吉豊が箱田村の久野瀬兵衛に宛てた書簡によれば、系図は所持していないが申し伝えでは、
常陸国茨城郡領主笠間殿家老久野某は右笠間殿御討死之御首左白山正福寺
え葬、其後浪士トなり笠間住居ス、男子四人有之
一人ハ総州家え仕へ
一人は久野三太夫
一人は旗本
一人は不知
となっており、総州家の詳細は不明で、久野三太夫の家系は前出の系図の下書きでは久野宗員の後裔となっており、旗本の久野氏といえば遠州久野家の久野宗能の孫である宗次を初代とする家、もう一つは『寛政譜』で平氏支流に分類され、久野孝知を初代とする家がありますが、久野孝知は関東地方との縁は無く、この話は誤伝であろうと思われます。
常陸の久野氏に関連した事項として、私の以前のホームページの掲示板に神戸の久野様から2003年に3件の投稿があり、
・私の父の実家は茨城県で家紋は九曜の紋です。また平家の流れらしいです。
・私の先祖の久野佐渡信明氏(天正のころ?)は江戸重道氏に仕えていたそうです。
また千葉氏との姻戚関係は現在わかりません。当家の久野氏祖は久野良詮氏で
大和守平良衛(文治のころ?)の長男で母は常陸大掾平資幹女らしいです。
・大和守平良衛なる人物は、清盛の十一男で権中納言らしいです。
また文治元年三月摂州一の谷で敗れ一族各西海没落の時良衛 一方より切り破り
長男良詮を引きつれ常陸国に下向し大掾平教幹に居したそうです。
また良詮の子は良鎮でその後は信銘、信聴、信晟、と信が続いていました。
良鎮の子から信がつく様になったかが不思議なところです。
とあり、家紋の九曜は久野宗員と同じで、この系統が笠間に居住した可能性もありますが、平清盛に十一男がいたとの話は初耳であり、清盛の直系の子孫とは信じ難いですが、常陸平氏の本宗家である常陸大掾氏と何らかの縁があったものと考えられます。
平安末期から良詮、良鎮と続くこの久野氏は、常陸国信太荘久野郷を名字の地とした形跡がないことからも、加木屋系図の冒頭の箇所に良久、良永、良昌、良之と続いている駿河久野氏の家系と何らかの関係があったのかもしれません。