名古屋系図

 尾張藩久野家の系図では尾張藩久野家初代の吉章(吉政と書かれている資料が多い)まで記載されています。
 この系図には、紀州藩久野家初代の宗成や、岸和田藩久野家初代方明の父である宗茂も記され、このような系図となったのは、各家が情報交換をした結果だと考えられます。

             名古屋系図1(1/2)

             名古屋系図 (2/2)

 また、吉章は宗政の弟になっていますが、実際は宗政の子供です。
 これは「遠州久野家の永禄騒動」の項で書いたように、過去に宗政が遠州久野家の永禄騒動で徳川方に反旗を翻したことがあるので、宗政の子供ではない記述にしておいた方が江戸時代を生き抜くためには得策であると判断した結果かもしれません。

 大筋では岸和田系図と同じ内容なのですが、原宗仲の子供に久野宗俊、信俊、仲俊の三名に俊の字が付いていることが注目されます。
 これは鎌田俊長が烏帽子親であったので、三名共に俊の一字を賜ったと想像されます。

 余談ですが、この系図では原宗仲に三人の久野姓と一人の向笠姓の子供が記述され、これでは子供四人共に養子に出されたと思ってしまいますが、ここでは親子関係が正確に把握されていなかったためにこのような記述になっていることに留意する必要がありそうです。

 慶長五年から元禄六年までの御目見得以上の尾張藩士の系譜集である『士林泝洄』では吉政の祖父から始まる系図があり、吉政以前の実名は全て「某」と記述され、江戸時代に公にされたこの系図と久野家文書の系図とではかくも違うものかと驚かされます。

 また、初代吉政の子である宗信は父の菩提を弔うために久野山清安寺を建立していますが、この久野山という山号は久能山を意識して名付けられたものであると考えられます。
 これは尾張藩の通史である『尾藩世記』に、「江戸邸を発し、路次久野山参拝。」の一文からも久能山と久野山が同一である事が容易に想像されます。
 さて、尾張藩士の久野氏の邸宅ですが、2代宗信・3代長雄・4代実直は名古屋城三の丸に、6代辰正は名古屋城の南東のお城のすぐ近くに住んでいました。
 また幕末の12代長一(賢宗)は名古屋市東区白壁に住んでいましたが、久野氏が住む前の宝暦十二年(1762年)の地図では書物奉行の河村七郎秀穎の邸宅となっています。
 河村秀穎は1773年に名古屋で初の図書館の役割を果たした「文会書庫」をこの宅地に設立しており、二万余冊に及ぶ文書を一般に公開していたそうですが、その後どのような事情で河村氏から久野氏の邸宅に変更となったのかは不明です。

 なお、寛文三年(1663年)の3代長雄の給地には知多半島の生路村(東浦町)、佐布里村(知多市)、白沢村(阿久比町)があったそうです(『新編東浦町誌』)。
 嘉永五年(1852年)の尾張藩士録に掲載されている久野姓の武士は次の通りです。
 ・七之丞(11代永甫)    八百石
 ・市右衛門         二百石
 ・内膳           八十五俵
 ・彦八郎         七十俵
 ・三郎四郎(内膳の子)   ―
         
 この久野氏の家系には文人が輩出されていまして、大正末から昭和初頭にかけて文壇、論壇で活躍した久野豊彦氏がおり、代表作には、『ブロッケン山の妖魔』、『虎に化ける』などがあります。
 また、久野豊彦氏の兄に久野文雄氏がおられますが、『比較日本文化研究 第十一号』において京都学園大学の堀田穣先生が『紙芝居の作り方』の著者である久能龍太郎の本名は、この久野文雄氏であることを解明されています。

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