平姓久野氏

 『寛政重修諸家譜』の平氏支流には、寛永10年(1633年)に旗本となった久野孝知を初代とする久野家が掲載されており、家紋は丸に六柏、瓜に内巴の二種類となっていますが、孝知以前の系譜は不明です。

 ところが国会図書館などに『本朝武家諸姓分脈系図』が所蔵されており、この中に孝知以前の人物が書かれていますので、若干異同がある数種類の系図の中から代表的なものの概略を掲載しておきます。

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 この系図で知孝と書かれているのは誤記で、孝知のことです。

 孝知の祖父の元知が遠州久野家の永禄騒動により遠州を離れて近江の京極家に仕え、父の知直も京極家に仕えたそうです。
 孝知の曽祖父である久野弾正左衛門元俊は久野元宗の弟であり、宗能の兄に当たる人物と記載されていますが、現状では他家の系図等に元俊やその親の元茂の存在を示す記録が見つからないので真偽の程は分かりません。

 ただ遠州久野家の家紋である「瓜の内三頭左巴」とこの家の家紋の「瓜に内巴」は同一か類似のものと考えられ、また小林恭一編『寛政譜以降旗本家百家事典』によれば幕末の頃の久野正六郎、吉太郎は本国を遠江と称していることから、この家系は久野宗能の兄弟から別れた家かは不明ながらも、遠州久野家の出身と考えてよいと思います。

 ところで、遠州久野家のどの系統に属するのかですが、一つの可能性としては鳴海系図に出て来る久野屋俊が遠江にも所領を有していた事と、この系図で久野元久、元次と続いた後に元の字を継いだ人物が見られないことから、この系統が遠州に移り、元茂に繫がったとも考えられます。

 また、孝知の父である知直が実は北川主膳秀親男と書かれていますので、実家の北川氏が平姓を称していたので、これを踏まえて子の久野孝知が平姓を幕府に申告して認められたのかもしれません。

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