出雲の久野氏がいつから久野姓を名乗ったのかは不明ですが、網野善彦著『日本中世史料学の課題』に京都府福知山市の桐村家が所蔵する大中臣氏略系図が紹介されていまして、常陸国新治郡を東、中、西に分割した時の中郡(茨城県桜川市)の郡司を勤めたのが藤原摂関家の流れをくむ上総介頼継としており、この子孫の中郡経元が承久の乱における戦功で出雲国久野郷の地頭職が与えられたとされており、中郡重経の子孫が出雲に下ったのではないかと考えられています。
oonakatomisi_keizu大中臣氏略系図(出典:『日本中世資料学の課題』)
また、平凡社刊『島根県の地名』によれば、久野郷の項では、現大東町南端の上久野・下久野一帯(島根県雲南市)に比定されるとし、面積は四丁三反半で中郡太郎六郎が地頭であったとなっていますから、太郎六郎を称する中郡重経が経元から地頭職を引き継いだようです。
さらに下久野村の項では、『雲陽誌』に八幡宮の神体の台の裏に延徳3年(1491年)8月15日改造、地頭大中臣朝臣忠経とあり、同じく『雲陽誌』に国魂神社には永正15年(1518年)久野肥後守直経建立の棟札あり、と記されているそうですから、両者共、実名に「経」の字を使うという共通性からも、常陸の大中臣姓を称する中郡氏の後裔が出雲の久野郷に来て久野氏を名乗ったのは間違いなさそうです。
元亀3年(1572年)に毛利輝元が出雲を治世下に置いた時、出雲には三十六城があったとされ、その中に上久野(村)の城主として久野氏がいたようです。
『尊卑分脈』にも藤原師通の子に頼継は出てきませんので、この氏が藤原摂関家の流れをくんでいたとはにわかには信じられませんが、古くからの常陸国の豪族であった可能性は否定できないと思われます。
現在、山陰地方にお住いの久野さんがこの中郡氏の後裔なのか気になるところです。