久野氏の祖・秦久能の足跡を推理する

 秦久能の手掛かりとなる記述は加木屋系図に残されています。
 加木屋本家系図では、「秦川勝ノ孫尊良末久能筑紫大嶋住亦珠流河国草薙山住久能山之城主也久能寺建観音有ハ妙音寺村也」とあり、加木屋分家系図では、「秦ノ川勝ノ公子尊良ノニ子久能秦欲遯乱東有地謂名島也経仁数方里筑紫来大島住亦珠流河国草薙山住久能山之城主也久能寺建勧音有妙音寺村也」と書かれ、分家系図では秦久能が筑紫に移ったのは東の地が乱れたことを理由にしているのが特徴です。

 筑紫大島には宗像大社の中津宮があり、草薙山とは現在の静岡市駿河区谷田付近の山を称すると考えられ、近くに草薙神社があることから、秦久能は神職として宗像大社中津宮から草薙神社へと移っていった様子がうかがわれます。
 またこの部分は秦久能の足跡とは関係ありませんが、「観音有ハ妙音寺村也」とは、久能寺が武田信玄によって永禄12年(1569年)に本尊の千手観音立像と共に、久能山から現在の静岡市清水区の妙音寺地区に移転した後のことを書いています。
 「久能山之城主也久能寺建」とは久能山に館を構え、久能寺を建立したと解釈されますが、秦久能は有度権現と称されていることや(『駿河志料』)、平安時代中期に作られた辞書である『和名類聚抄』にも有度郡に久能の郷名が出てこず、この付近の郷名が会星(あうほし)であったことを考えると(『清水市史』)、当時久能山は有度山塊中の一峰ではあったが特に名前は無かったものと考えられます。また京都国立博物館の調査結果によれば、久能寺の千手観音立像の製作年代は奈良時代の八世紀から、遅くとも平安時代初期の九世紀初めまでと推定されていますので、秦河勝の孫かひ孫の秦久能は八世紀中期の人物で、久能寺の前身の寺を建立したのが秦久能であったとしても、久能の名を冠し久能寺と号したのはその子孫であろうと思われます。

 話は変わって、同じく秦河勝の子孫を称する川勝氏はそれ以前には河勝氏を名乗り、京都市右京区西京極にあった川勝寺と縁があり、このお寺は戦国時代には川勝寺城として利用されていたようですので、久野氏の場合の久能氏から久野氏への変遷や、久能寺が久能(山)城として利用され、現在は寺も残っていないなど、両者に共通点が見られます。
 また、京都市右京区太秦には蛇塚古墳(広隆寺から西南へ約1kmの距離)があり、久能山下には蛇塚の地名がありますが、これらは偶然の一致でしょうか。

 さて、有度権現と称され、また本家系図や分家系図で久能神として崇拝され、さらに久能山東照宮に久能神社として祀られた秦久能は久野氏一族隆盛の基礎を築いた人物であり、名字の「久能」もこの人物に由来すると推測しています。
 鎌倉時代に久能郷と称された久能山下の地域は「海があれど猟がなく、百姓あれども田地なく、河原あれども水がない。」と、三無村などと言われた場所ですが、秦久能はその有度浜での製塩事業を成功に導いた人物ではなかったでしょうか。
 製塩については、青木和夫著『古代豪族』によれば、筑前国嶋郡の郡司肥君猪手(ひのきみいで)一族の製塩所経営に関連して概略次のような内容が紹介されています。

 奈良時代前後から大規模な塩浜製塩が割り込んでくる。
 煮詰める時に大きな皿形の鉄釜を使う。それだけに集約的な労働力が必要なの
はもちろん、薪をとる山と塩浜にする海岸とを占拠する権力や、大きな鉄釜を
購入する財力がないと着手できない。
 しかし、律令制度は公地公民主義であり、雑令には「山川藪沢の利は公私これ
を共 にせよ」との一条もあって公地の私的占拠は禁止されている。
 そこで福岡県糸島半島の郡大領であった猪手一族の考えた手口は、おりから
朝廷が大宰府に建設中の観世音寺に、この浜と山とを朝廷から寄進してもらい、
寺の塩浜製塩所を設立して、経営を引き受けることだった。
 そのために一族は国師つまり筑前国の僧尼全体の監督僧にわたりをつけたら
しい。
 大宝3年(703年)にはまず薪がある可也山の一部を朝廷から寺へ寄進させる
のに成功した。
 さらに和銅2年(709年)には、皿形の鉄製塩釜を朝廷から観世音寺へ寄進し
たという名目で一族が入手した。

 つまり、秦久能が筑紫にいた時にこのような福岡県糸島半島の製塩事業を観察し、それを有度浜で実行して成功した可能性は否定できないからです。
 また、駿河久能寺文書の大永6年(1526年)6月18日の今川氏親判物写では寺領の浦の流木採取と塩焼を認め、これらの権利を今川氏輝・義元も追認していることから、大規模な製塩事業はお寺、浜、山の三点セットで考える構図が古代から続いていたのかもしれません。

 それでは秦久能が筑紫に来る前に居たという東の地とはどこなのでしょうか?
 加木屋本家系図にも分家系図にも直接の記述は見られませんので伝説の域を出ませんが、本家系図の5代親良の箇所に、「人皇四十二代文武天皇東エ行幸給時椰子初テ実是ヲ天皇献帝御感不浅」と書かれ、分家系図も同様の記述ですが、『続日本紀』によれば文武天皇(683年~707年)が行幸した所は難波、吉野、紀伊の三か所であり、時代的には前記の記述は紀伊における秦久能の親である秦尊良の伝承が書かれた可能性が考えられます。
 京都の松尾大社の神主であった東本家の系譜によれば、宗祖徳山秦都理の箇所に、「大宝元年、文武天皇の勅命に依り、秦都理松尾神殿造立を承り神主也」との記述が見えますので、文武天皇との関連で秦尊良も松尾大社とは無縁では無かったのかもしれません。
 そうしますと、尊良の子の久能も松尾大社の神職であった可能性が考えられます。
 ここで秦久能も松尾大社の神職であったとしたなら、宗像大社から市杵島姫命が祭神として松尾大社に分祀されていた事が、秦久能が筑紫の宗像大社に派遣された一因かもしれませんし、「古代の宗像氏とその周辺」の項で記したように宇佐神宮との関係も無視できません。

 また、秦久能の先祖である秦河勝については、大和岩雄著『日本にあった朝鮮王国』によれば、秦河勝による新羅|弥勒|秦氏という結びつきは秦王国にもあるから、秦王国と秦河勝の交流がうかがえ、豊前にあったとされる秦王国には弥勒信仰を重視する新羅仏教がもっとも早く入ってきたとされていることや、元々、八幡神は秦王国の香春(かわら)岳の神(香春神社の祭神は辛国息長大姫大目姫で、歴史学者の三品彰英氏によれば息長大姫は息長帯姫、辛国・・・大目姫は辛島勝乙目を「一つに併せた名」と考えている。)であったと指摘されています。
 
 秦王国が中国側の誤解に基づくネーミングであることは「秦王国とは」の項で記した通りですが、八幡信仰の普及に貢献した人物に福岡県の筥崎宮(筥崎八幡宮)の初代宮司になった秦遠範がいます。
 この秦遠範は、広渡正利編『筥崎宮史』に所収の「筥崎大宮司系譜」によれば、武内宿祢の後裔を称し、遠範の箇所には、「隼男十余代之後胤也、大宮司、正四位、秦宿祢、仕醍醐天皇、延喜年中始賜秦姓、叙正四位、是筥崎大宮司職之始祖也、」となっていますが、十世紀の初めに秦姓を賜ることに特別な意義を見いだすことは難しく、従って武内宿祢の後裔ではなくて、元から秦姓であったと解釈するのが自然のような気がします。
 ところで、宗像大社の「宗像大菩薩御縁起」には七戸大宮司事として、宗像社神官の祖である七戸神官が列記されており、第一より順に宗形滋光、物部福実、第三として秦遠範が記されており、宗像大社の神官から筥崎宮の宮司になったことが分かりますが、加木屋久野家系図で平安時代に久範を称する人物が見られ、秦遠範の兄弟か親と仮定しますと、秦久能の宗像大社の神官の地位を後裔の秦遠範が保っていたとも考えられます。
 
 さて、加木屋久野家の本家系図と分家系図の南北朝時代と思われる箇所には、久野貞之が牧野氏の養子となり牧野熊蔵を名乗ったとか、久野貴之が足助二郎の家臣になったことが書かれており、三河の諸氏と縁があったことが系図から読み取れます。
 牧野氏は豊川市牧野町を名字の地とする武士で、江戸時代には大名、旗本を輩出するなどした家系ですが、三河一宮の砥鹿(とが)神社(愛知県豊川市)神主・草鹿砥(くさかど)氏の分かれではないかとする説もありますが、『寛永諸家系図伝』によれば牧野氏は田口姓を称し、先祖を阿波民部大夫重能としており、重能の俗称は田口成良です。
 しかしながら、阿波国に田口姓の人物が活動していたことは確認されておらず、源平の合戦で活躍したとされる田口成良の名前そのものが誤伝で、実は粟田重能(成良)であろうとする説が有力です(五味文彦著「阿波民部大夫と六条殿尼御前」『日本歴史』第四〇六号)。
 この粟田氏は徳島県鳴門市北灘町粟田を名字とする武士と思われ、文禄の役で戦死した阿波水軍の粟田半七もその一族であり、粟田重能の弟の桜間介能遠は在庁官人で、能遠が支配していた徳島県名西郡石井町桜間にある八幡神社は以前には田口大明神と称されていたことから、田口大明神の神官であった牧野氏の先祖が三河に移住して、引き続きどこかの神社の神官を務め、後に田口重能の後裔を称したのかもしれません。
 ところで、豊川市小坂井町の菟足(うたり)神社の案内板には、「菟足神社と徐福伝説」と題して、


「今から二千二百年ほど前、戦国の中国を統一した秦の始皇帝は、徐福から東方海上に蓬莱など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があるということを聞いた。そこで、始皇帝はその霊薬を求めて来るよう徐福に命じ、三千人の童男童女と百工(多くの技術者)を連れ、蓬莱の島に向かわせた。しかし、出発してからのその後の徐福一行の動向はわかっていない。
 ところが、わが国には徐福一行の渡来地といわれている所が二十余箇所もある。しかも、わが小坂井町が徐福渡来地の一箇所として挙げられているのである。それは次のような菟足神社に係わることからいわれるようになったと考えられている。
1.熊野に渡来した徐福一行は、この地方に移り住み、その子孫が秦氏を名乗っている。
・ 豊橋市日色野町には、「秦氏の先祖は、中国から熊野に渡来し、熊野からこの地方に来た」という言い伝えがある。
・ 牛窪記〔元禄十年(一六九七)頃成立〕には、「崇神天皇御宇二紀州手間戸之湊ヨリ徐氏古座侍郎泛舟、此国湊六本松ト云浜ニ来ル。…中略…徐福ガ孫古座郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏者多シ…」とある。
2.菟足神社の創設者は、「秦氏」ともいわれている。
  菟足神社県社昇格記念碑(大正十一年十二月二十二日昇格)に、「菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は…中略…雄略天皇の御世、穂の国造に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木浜に宮造して斎ひまつりしを天武の白鳳十五年四月十一日神の御誨のままに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり…」と記されている。
3.菟足神社には、昔から中国的な生贄神事が行われている。
 古来菟足神社の祭事には、猪の生贄を供えていた。三河国の国司大江定基が、その生贄の残忍なありさまを見て出家し、唐に留学し寂照法師となったことが、「今昔物語」(平安後期)
に書かれている。生贄神事には人身御供の伝説もあるが、現在では雀十二羽を供えている。
 以上のほか、三河地方が古来から熊野地方とは海路による往来が行われ、熊野信仰の修験者より熊野に伝わる徐福伝承が伝えられた。また、小坂井町が交通の要地で、東西を往来する人達のなかからも徐福の故事が伝えられたとも考えられる。」


 ここで「本宮山下秦氏者多シ」とは砥鹿神社の奥宮は本宮山の山頂に在り、その下とは豊川流域の新城市野田辺りのことを指していますから、新城市、豊川市の豊川流域には秦氏が多く住んでいたのではないでしょうか。 
 さらに三河・牧野氏の家紋である「三つ柏」と同じ家紋を名古屋市の成海神社神主であった牧野氏も使用し、久野氏も鎌倉時代には既に成海神社神主だったので、両氏の縁の深さは相当なものと言えそうです。

 さて、久能寺は鉄舟寺と名前を変えて存続しているわけですが、鉄舟寺境内には熊野十二所神社が鎮座しており、康平5年(1062年)に観音様の守護神として熊野十二社権現を迎え祀ったと言われていますので、久野氏の先祖は先ほどの「菟足神社と徐福伝説」にあるように熊野から豊川流域に移り、そして秦久能は山岳信仰を起源とする本宮山山頂の砥鹿神社奥宮との係わりを持ち、駿河に至って有度山(久能山)に山岳信仰の対象となる久能寺を建立したのではないかと推測されます。
 加木屋久野氏が桶狭間の合戦の後に駿河から加木屋に移り、江戸時代に熊野神社を勧請し、さらに如意庵(山号 医王山、別名、東照峰)を建立したのは、秦久能から始まる久能山での久野氏の事績を加木屋で再現して見せたものとするのは考え過ぎでしょうか。

 以上、まとまりのない文章になりましたが、秦久能は地方の神官の地位に活路を求めて、山城から三河、豊前、筑前、駿河へと移動していった可能性はないでしょうか。

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