加木屋系図によれば、久野(久能)氏は渡来系豪族秦氏の末裔を称し、駿河国久能(現在の静岡市駿河区根古屋付近)を故地とする武士だったようです。
この久野氏が、養老年間(717~724年)に中央から派遣されて駿河掾に任命された秦忌寸稲粟(従六位下)とどのような関係にあったのかは分かっていませんが、久野氏は秦久能(はたのひさよし)を先祖神として祭っており、聖武天皇の時代に秦久能が一時筑紫大島に住んでいたという話は、「久能寺縁起」や『修訂 駿河国新風土記』には出てこないオリジナルな内容であることから、久野氏の秦氏末裔説は信憑性が高いものと考えています。
また、久野氏の所在地について、静岡県立中央図書館に所蔵の酒井貞次著「入江氏系譜」では、久能館は有度山南麓の谷間、有度郡久能(現静岡市北久能)にあったとされていますから、現在の根古屋と安居の間を流れる柳沢の上流域に館があったと思われます。

このことを傍証するものとして、次のような話が『静岡市史』にあります。
根古屋と詰めの制
鎌倉初期の屋敷址・館地址城址を探るさいに、私どもは駿河国有渡郡(静岡
市久能)根古屋の地名に大きな関心を払わなければならない。静岡市久能、
根古屋地内五十一番地の地籍図を拾うと、そのうちに、御殿地、芝地、陣内
、海賊倉、小屋、谷、居守屋の小字が浮びあがってくる。
昔、「三無村」といわれたこの地に湊が造成されたことが知られる。
鎌倉初期、日本全国に普及した、「根古屋」と「詰めの制」の行われたとこ
ろに残る地名と一致する。
また、当時の「新勅選和歌集」に、〔いつとなく恋するがなる有渡浜のうと
くも人の成りまさる哉〕の一首をみても、当時、すでに、有度山の南麓、久
能浜に、交通路が開け、鎌倉武士団拠点「根古屋」が存在していたことがわ
かる。
根古屋は「根小屋」とも書き、中世の武士の占拠する館や、城のある山の麓
の集落だといわれる。
秦久能は古代寺院の久能寺を駿河の久能山に建立したとされ、久能寺は戦国時代に武田氏によって久能山の地を追われ、その跡地には久能城(久能山城、久能寺城、久野城とも呼ばれる)が築かれ、その後徳川氏によって久能山東照宮が建てられました。久能山東照宮の末社には通常公開していない久能神社が久能城二の丸址にあり、久能忠仁が祭られています。
確かに「久能寺縁起」には、「推古天皇御宇贈太政大臣尊良之次男久能忠仁公申人。賜駿河国下着。」とあり、それに続いて久能忠仁による久能寺建立の件が書かれており、久能寺の流れをくむ鉄舟寺には久能忠仁の木像もありますが、推古天皇の時代に久能と呼ばれる地名は近くに見当たりません。
従って、その地名を名字にした人物が存在するはずもありませんし、公家にも久能姓を称した人物は発見できません。
それに太政大臣で忠仁公といえば藤原良房のことであり、正に「久能寺縁起」のくだりは「ハク」付けのための文章でしょうし、久能忠仁ではなく秦久能の方が時代的にも正しいものと考えますが、鎌倉時代の久能寺縁起の作者には久能寺建立に久能氏の先祖が係わっていたとの認識があったので、久能と忠仁を組み合わせた名前の人物にしたのでしょう。
なお、静岡県袋井市には久能(くの)の地名がありますが、これは明治9年に上久野村・中久野村・下久野村が合併して久能村になったのが由来であり、久能氏とは無関係です。
平安時代末期頃に成立したと思われる駿河の地名の久能(くのう)は久野とも表記され、久野は当初「くのう」と呼ばれ、名字も江戸時代の頃まで久野と久能が混用されていたようです。
この久野氏は藤原雄友(753~811年)より藤原姓を賜ったとされ、『尊卑分脈』(尊卑分脉とも)に登場する藤原南家為憲流久野氏(初代は忠宗)も、この久野氏の養子になったのではないかと思われます。久野氏は代々今川氏の家臣で、戦国時代に遠江国の久野城、別名蔵王城(久野氏の初代城主は久野宗隆。現在の静岡県袋井市鷲巣に城址がある。) を本拠にしていた久野氏は駿河国からの分かれと判断されます。
南北朝時代から室町時代初期にかけて公家の洞院家が編集した『尊卑分脈』には藤原南家為憲流久野氏として、忠宗―清宗の父子しか出てきません。また忠宗の父、原宗仲を久野宗仲(初見資料は江戸時代に読み物として成立した「鎌倉武鑑」)とする系図にお目にかかることもありますが、宗仲の武勇とそれに伴い遠江国久野の地を給され、以後久野氏を称するようになったとする話は根拠がなく、戦国時代以前にこの地で久野氏が活躍したとする史料は何ら見当たりません。
同様に水戸藩士浅羽氏編集の「浅羽本久野氏系図」で宗仲の箇所に「遠州久野居住 号久野六郎法名雲外軒」と書かれていることや、戦国時代末期から袋井市域で久野氏が神主をしていたことなどを根拠に、久野氏の久努国造末裔説を主張する向きもありますが、久野氏の家伝には見られず、また伝承の類いも一切無いことから、久努国造末裔説は立証し難いといわなければなりません。
なお、久野と書いて「ひさの」と読む氏は播磨国揖東郡久野村を名字の地とする武士で、赤松氏の庶流であったとする説(本山一城著『黒田如水と二十五騎』)もありますが、矢代和夫ほか編の『赤松盛衰記』には何ら記載がなく、その可能性は低いものと考えています。
以上、通説とは違う話を述べてきましたが、その裏付けとなる話を今後書いていこうと思います。