この加木屋系図で一番の謎は、33代栄邑の項に記されている宗秋、宗能、維宗、宗秀の存在です。
大阪府の岸和田系図では宗重は宗能の親で八右衛門宗明と同一人物ですし、宗明と宗秋は同一人物と考えられ、宗秀は宗能の子ですから、宗能の親と子を含めた3代がこの系図に書かれていることになります。さらに、岸和田系図では宗重は他の久野家へ養子にいったことになっていますので、養子先は駿河の久野家だった可能性は否定できません。
ここで加木屋久野家3代維永が名乗りの点から見て本当に宗政の長男なのかですが、宗秀の前に書かれている久野左衛門維宗の存在が気になります。
宗秀の兄は千菊丸であり、遠江久野家の永禄騒動で人質として三河に下り、後に与次郎貞宗を名乗り、竹谷松平家5代清宗の娘と結婚しており、浅羽本久野氏系図では二十一歳で岡崎にて早世したことになっていますが、愛知県西尾市の岩瀬文庫が所蔵する紀州藩家老久野純固家臣犬塚正雄著『遠州久野家御代々御小伝』によれば、「高野山光明院御納牌之内ニ 遠州久野与次殿 油山寺使也 明叟源光禅定門 天正十五年七月トアリ」と記され、与次郎が三河から遠州に戻り、父親の久野城主宗能が下総・佐倉に転封となる三年前の1587年に没した事になりますが、与次郎の弟で後に佐倉城主となる久野宗秀(別名、宗朝)の生年が1554年ですから、与次郎貞宗が加木屋系図では左衛門維宗と書かれ、その子供が加木屋久野家3代の維永であったと考えても年齢的には成立しそうです。
また、本家系図には宗秀の箇所に「右下総国佐倉ニテ終ル」と書かれ、分家系図の維宗の箇所に「寺本住後寺本名字並列中ノ郷ニテ終」と書かれていますので、宗能の子供の動向に並々ならぬ関心を寄せていたことになります。
維宗が居た寺本とは現在の愛知県知多市にあり、中ノ郷とは現在の名古屋市緑区大高町にあった地名と思われますので、維宗は息子の維永を加木屋牧野家に送り込むことに成功し、その後は近くに住んで余生を送っていたものと思われます。
久野宗能の駿河出身説を補強するものとして、永禄11年12月21日に徳川家康が久野宗能と一門同心衆に宛てた安堵状の内容では、「上久野、若狭方、下久野、(中略) 国領、以上惣都合二千五百貫文 右、今度忠節付而、本地如駿州之時宛行所、永不可有相違、(以下略)」となっており、久野宗能が以前駿州にいた時に安堵されていたように書かれています。
そうしますと、宗能、維宗、宗秀は駿河で生れ、桶狭間の合戦後もしばらく駿河にいた可能性があり、その後遠江に移ったとしますと、掛川城に逃れた今川氏真が家臣であり顔を見知っていたであろう宗明に寝返るよう話を持ちかけたのもうなずけます。
この系図では久野宗能の個所に遠江・久野城主とは書かれていませんので、 系図を修飾する意味で宗能が掲載されている訳ではないようですし、系図では民部を名乗る人物が散見され、宗秋も民部、宗秀が民部少輔を名乗っているのも何らかの関連があるのでしょう。
また宗秀は佐(左)太夫とも称し、宗能は三郎左衛門が通称であり、加木屋系図で太夫(大夫)や三郎左衛門を名乗る人物が散見されることは、遠江と駿河の久野家が同族である証拠でしょう。
大夫の名称は、古くは中国の西周晩期に現れた称謂で、春秋時代においては、王・諸侯・卿・大夫・士・庶人よりなる身分制度のうちの一階級を意味していましたが、日本においては「東寺百合文書」の備中国新見荘関連史料には室町時代に秦大夫を称する人物が登場しますが、本系図の2代良永が秦大夫を名乗っているのは平安時代と考えられ、藤原実資の家人であった常陸国の在地武士の平維幹は、若い頃衛門尉を経験し、常陸国に帰って999年に五位になったが、在地では水守大夫(筑波郡水守郷は彼の本拠地)と称し、何々大夫と通称される五位の在地武士は案外多かったそうですから、秦大夫を称する良永も駿河国有度郡の有力な武士で、駿河国の在庁官人だったのかもしれません。
ところで、『群書類従』に所収の「広隆寺来由記」によれば、京都の広隆寺の鎮守三十八所の内、鳥羽上皇の時代に「秦大夫。小徳位。大花上。」が加えられ三十八所になったと書かれていますが、小徳位、大花上の位が与えられたのは秦河勝であり、この秦大夫とは河勝のことを指しているように思えますが、そもそも広隆寺の広隆とは秦河勝の本名であり、その名前を冠したお寺の鎮守様に秦河勝を加える意味があったのか疑問ですし、駿河の久能寺でも秦久能が鎮守様には納まっていません。
そしてなぜ鳥羽上皇の時代に付け加えたのかですが、全くの推測ながら、鳥羽上皇の中宮であった待賢門院璋子を中心にして鳥羽上皇や女院など宮廷の人々が共に仏と縁を結び成仏することを願って書写された法華経である国宝「久能寺経」が久能寺に納められたことと、広隆寺の鎮守様に駿河の秦大夫が加えられたこととは交換条件だったのかもしれないということです。
「広隆寺由来記」(阪本龍門文庫所蔵)によれば、確かに「秦大夫」が追加された経緯は先ほどの「広隆寺来由記」と同じなのですが、位は書かれていませんので、元々秦大夫は秦河勝を意図していない可能性がありますので、これは駿河の久野氏の先祖である秦大夫が秦河勝の末裔であることを広隆寺側にも強く印象付ける目的であったとするのは考え過ぎでしょうか。
さて、廣済堂文庫の『鎌倉謎とき散歩』には『逗子市誌第四集追補(ニ)』からの引用で、源義平への忠心を源頼朝から感謝されている久野六太夫がいますが、系図に出てくる名前の太夫との一致点からその存在は無視できません。
さらに、静岡県立中央図書館に所蔵の松下重長の編になる『改選諸家系譜続編』の八右衛門宗明から始まる久野氏系図の冒頭に「久野氏本国駿州」と書かれていることも、これまでの検討結果から誤記、誤伝の類ではないようです。

また、久野氏系図では三河・牧野氏との縁が強調され、桶狭間の合戦に参加した久野栄邑は名を牧野熊蔵と改めて加木屋に住んだと書かれています。
確かに元庄屋家の久野様のご近所にお住まいの牧野様から見せて頂きました「世代録」には、「御先祖は駿河の国久野山浪人、牧野熊蔵と申す人、村へ相越し、牧野勘兵衛と改む。」と。また、「これより加木屋にて牧野家創設す。」とありますし、35代維永と36代維義が一時期、牧野家の通称である勘兵衛を名乗っていることを考えますと、両家の密接な関係がうかがえ、この牧野氏が久野栄邑(牧野熊蔵)直系の御子孫ではないかと考えられます。
加木屋久野家2代の宗政は遠江久野家の永禄騒動で武田方に鞍替えした人物ですが、子や孫が清洲藩士や尾張藩士になっていましたから、庄屋になるには助力も期待できそうなので、加木屋牧野家に迎えられ、実質的に加木屋久野家の初代になったのではないかと思われます。