加木屋系図(本家)その1

 加木屋系図(本家)は『東海市史』にもその冒頭部分の写真が掲載されていますが、全体は謎に包まれていました。

 所蔵されている元庄屋家の久野様から見せていただく機会がありましたが、本家系図は34代宗政まで系線が書き込まれていない系図の為、ここでは系図そのものの掲載は冒頭部分のみとし、分家系図を参照しつつ、分家系図に書かれていることを織り交ぜながら話を進めます。

 分家系図では弘安年中 (1278~1288年)に駿河久能の地が今川国氏の領地になったとされ、その時の当主である兼之は秦久能から数えて世代が20有余であったと書かれていますので、これを根拠に兼之以前に存在したと思われる人物を世代の数だけ系図上に並べた可能性が考えられます。

 これは名古屋市の鳴海系図で初代元久が貞永元年(1232年)に没したと記され、鳴海と加木屋系図の10代元久が同一人物と仮定しますと、兼之の前に書かれているのは当然としても、分家系図で長元4年(1031年)の願書に登場する季善より前に書かれているのは正確な世代が把握出来ていなかった証拠かもしれません。

 秦久能が奈良時代の人物であったとしても、加木屋系図に載っている実名に「良」「久」「季」が何代にもわたって使われており、親子の実名の一字が代々使われるのは平安末期からだと言われているので、このケースに当てはまります。

 また、系図の初代「良久」の名は、平安時代の古文書や金石文を集めた『平安遺文』から人名を拾うと、平安後期に出てくる人物名(4名共僧侶)ですから、この系図には平安後期以降の人名が書き連ねられ、奈良~平安後期までの空白期間の存在がこの系図を偽系図と思わせる大きな要因の一つだと考えます。

 目を引く記述としては4代秦良之以降、左衛門尉を名乗る人物が散見されますが、これは豊田武著『苗字の歴史』によれば、平安末期になると地方豪族は京へ上って兵衛・衛門の微官を買い、郷里へ帰って何兵衛・何右衛門と称したと記されていることと符合しているのかもしれません。

 例えば、阿波国の粟田氏は在京活動の中で武官のみならず民部・外記など実務官人としての要職に就いており(野口実著「十二世紀末における阿波国の武士団の存在形態―いわゆる「田口成良」の実像を中心に―」『京都女子大学宗教文化研究所研究紀要第二七号』所収)、久野氏のこの系図でもほぼ同時代と思われる箇所に民部・外記を称する人物が見えますので、久野氏も粟田氏と同じように在京活動をしていた可能性は否定出来ません。

 さらに、7代久能左衛門尉維良の項に「正二位大納言雄友公ヨリ賜藤原姓故号藤原」と書かれていますが、藤原南家初代武智麿の曾孫にあたる藤原雄友は806年に大納言となり、翌807年10月には伊予親王事件で伊予国に流され、これをきっかけに藤原南家は権力の中枢から追い落とされますので時代的には藤原雄友から藤原姓を賜るというのは誤伝のような気もしますが、鳴海久野家では江戸時代の末に公家の万里小路正房家の執奏に就任している人物がみえ、分家系図で15代季善が長元4年(1031年)の時点で藤原姓を名乗っていることから考えて、藤原雄友家の家司として貢献したので藤原姓の名乗りを許されたのかもしれません。

 もう一つの可能性としては、9世紀になって郡司富豪層が調・庸の京への運搬を請負って上京の際に、請負物の着服分を王臣家(藤原北家などの有力貴族)に納めて王臣家人になり、さらに彼らの田宅を王臣家に寄進して、着服分を受領(各国の守、権守、介)が差し押さえるのを免れようとした事があったそうですから、藤原雄友家との関係はこのような例が当てはまるのかもしれません。

 12代資良の項に「定紋ハ瓜ノ中ニ左リ巴成ニ工藤家ニ縁有テ丸ノ中藤ノ紋モ付ル」とありますが、富士山本宮浅間大社社家の和邇部氏の系図には工藤(藤原)為憲、時理父子の妻になった女性が見えますので、久能氏もこの工藤氏と姻戚関係にあったのでしょう。現在の加木屋久野家の家紋が「丸に下り藤」ですので、この譜文と対応しています。

 さて、本系図で分出したと思われるのは相州早川の地を名字とした15代季善の兄弟の早川氏のみです。

 久野氏は今川基氏に仕えたという23代季秋以降も代々今川家臣であったようです。

 本多隆成ほか著『静岡県の歴史』によれば、平安時代末期の県下武士団として久能山南麓に久能氏の存在が記述されていますが、合わせて在地性または所在国について検討を要するとなっています。これは早くから今川氏の家臣であり、各地を移動していた為のようです。

 では、今川国氏が駿河久能の地を領したという話は本当なのでしょうか。
 『続群書類従』に所収の『今川家譜』に、今川国氏が弘安8年11月17日に鎌倉幕府の有力御家人・安達泰盛と内管領・平頼綱の合戦、いわゆる霜月騒動の時に戦功があり、遠江国引馬庄を賜ったという話が載っています。ただ『尊卑分脈』によれば、今川国氏の没年は弘安6年であり、霜月騒動の活躍は子の基氏とする説が有力です。また幕臣であった木村高敦(1680~1742年)の撰になる『武徳編年集成』の元亀元年正月の項でも、「遠州敷智郡匹間ハ往古久野越中守ガ宅地也今川氏親ノ時三善為連城郭ヲ築ク」と、今川氏親の遠州侵攻以前に久野氏が匹間(浜松)に居たように記され、先の今川国氏が引馬庄(浜松)を賜ったという話と久野越中守が匹間(浜松)に住んでいたという話は、23代久野季秋が今川基氏の家臣となり、その後に引馬庄に移住して来たのが引馬への第一歩と考えられ、一部の久野氏の和田合戦における敗北や久能寺の堂舎焼失といった家運が衰退していた状況からの脱却を図るため、今川氏に臣従することになったのではないかと思われます。

 また、『知多郡史』に加木屋の地は鎌倉時代に熱田神宮の社家田島氏の葬地だったのではないかと記され、さらに田島氏が遠州浜松にいた時には浜松の普済寺(1432年に浜松市内の寺島町から広沢に移る)に帰依していたので、後に加木屋にも菩提寺として普済寺を建立したと記載されています。

 久野氏と三河や尾張知多郡大野の牧野氏、及び知多郡大野の佐治氏の関係、また佐治氏と知多郡木田庄を領していた荒尾氏との姻戚関係から考えますと、今川家臣であった久野氏が桶狭間の合戦(1560年)後に逃れて、大野から木田庄加木屋に移り住んだという話は当然かもしれません。

 本系図では大高村から加木屋へ移住したことになっていますが、これは尾張藩の地誌『尾張志』が、「牧野伝三成重(成里が正しい)は、尾州知多郡大高村の人。伊予守に任ずる。」とあることから、このような誤伝が『尾張志』成立以前から世間に流布しており、その内容から加木屋に来る前は大高村に住んでいたと系図に書き込んだ可能性が考えられ、この事は加木屋初代の久野栄邑(えいそん)が本系図作成に関与していなく、2代の宗政以降の人物が系図作成の当事者だったことを証明しているのかもしれません。

 そもそも栄邑という名前は実名ではない可能性があり、真田幸村が生前に名乗っていた実名は信繁であり、邑と村の違いはあるものの、栄邑も生前に名乗っていた名前ではないとしますと、栄邑が系図作成の当事者ではないことになります。

 なお、加木屋久野氏の菩提寺も普済寺であることから、久野氏は引馬(浜松)の普済寺を菩提寺にしていたか、或いは少なくとも懇意にしていたのではと考えられることも木田庄加木屋を選んだ理由の一つだと想像されます。

 久野氏が加木屋へ移住した時期については、加木屋の先住者の動向も重要です。

 美濃・烏峰城(後の金山城‐岐阜県可児市)の城主・斎藤大納言正義(妙春)は天文17年(1548年)、久々利城主・久々利三河守頼興に久々利城(可児市)で騙し討ちにされ、その子である亀若は尾張の加木屋村に身を隠し、元服して加木屋久蔵正次と名乗り、その子の加木屋宇衛門正則は妹が金山城主の森長可の側室になった縁で長可の家臣となり、天正11年(1583年)に森長可配下の加木屋正則が久々利三河守頼興を討ち取り無念を晴らしたという話が残っています。

 従って、大野城落城が天正12年とされていますから、加木屋正則が加木屋を退去した後に、大野城の落城と前後して久野氏が加木屋に移住してきたのではないでしょうか。

 この加木屋氏の存在を裏付けるものとして、現在の加木屋町の北端に内堀の地名が残っていることではないでしょうか。これは堀を造って大田川の水を山際まで引いて防御した結果ではないかと思われるからです。

 また、天保12年(1841年)の「加木屋村絵図」には、現在の内堀と宮ノ脇を跨る地域に字長慶寺の地名が記されていますので、久野氏が移住する前の加木屋の中心地はこの内堀付近であったのかもしれません。

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