加木屋系図(分家)

 加木屋系図(分家)は『東海市史資料編第二巻』に加木屋初代とされる久野栄邑からの系図が掲載されていますので一部分を本項の末尾に添付しておきましたが、全体は謎に包まれたままでした。系図を所蔵されている元庄屋家の近くにお住いの久野様から見せていただく機会がありましたので、ここに本家系図のみに出てくる人物を含めて、維永までの系図を載せました。

 大筋では本家系図と同じ内容なのですが、分家系図の方が詳しい箇所や分家系図にしか出てこない人物も散見されますので、これらを中心に解説します。

 系図では松浦永時嫁、松浦弾正直之の名前がみえますが、この松浦氏とは肥前出身で、九州探題の今川了俊の家来となり、了俊の遠江帰国につき従って肥前より来住し、その後駿河に移住した一族のようです。

 渡辺三義著『名字にみる静岡県民のルーツ研究』によれば、この松浦氏は「勝―通―○―房時―通直―親直―治直―康直」と続き、康直は桶狭間の合戦で討死しています。 
 久野直之が松浦家に養子に入って以後、「直」を通字としているようですから、直之の欄にある「松浦弾正」の記述は史実と思われます。

 次に系図の譜文で価値があると思われるものを紹介します。
 その一つは、季善の箇所に記されているものです。

  上総忠常ニ党ル由有聞尤讒者ノ依為所長元
  四年二月伊豆国エ遠島其後季貞再三相願
  頼信公忠常退治之時有免許帰館相済ミ道
  心ニ成徳善ト改メ跡目無相違相続相済候
  謹上再拝々々天照太神八幡太神我祖久能
  神為守宝祚為利蒼生累世季善苟生弓馬之
  家纔ニ継箕裘之塵于時讒者依為所遠島蒙
  无失ノ罪而比島来三所神社我志有照覧而
  速天変不測之神通ヲ降玉エテ無失ノ罪ヲ
  免キ玉エ我身再ヒ赴戦場為君為セン国全
  為身為家ニ不赴之志ヲ神忽有感応武運長
  久子孫永昌ヲ与エ給エ至帰館棒奉幣□供
  ヲ備天致佐□礼拝玄鑑成加護使玉エ見一
  時ニ諸願ノ元妙ヲ依祈誓如件
  長元四年三月     藤原季善敬白

  右ノコトク願書認メ日夜祈誓ス无程有御赦免
  帰国依之三所ノ神社エ弓箭其外奉納ス

 これは藤原季善を名乗る久能季善が、上総介平忠常の一味であると讒訴され、これが元で遠島になり、長元4年(1031年)、追討使の甲斐守源頼信のもとに平忠常が帰降した後に季善も許されたと言うものです。

 本譜文の信憑性については、貴族・源経頼の日記『左経記』の長元4年4月28日の箇所に、源頼信が京都に送った書に平忠常が投降してきた旨を記しているので、譜文の2月に伊豆へ遠島となり、そして願文が3月に書かれ、ほどなく赦免となっているのは『左経記』の内容と時期的に整合しているので史実と思われます。

 さらに系図では季善の息子、季貞から姓の表記が「久能」から「久野」になっているのは注目に値します。

 つまり、千葉県の『印旛郡誌』によれば、「大同年間、都筑刑部久能なる者が観音像をもって当地に移住し草庵を建立、これが潮音寺(富里市久能)の創始と伝えられる。」とありますから、これは秦久能による久能寺建立の話と似ており、駿河久能氏の関係者が下総に移住し、平忠常の配下になっていたことは十分に考えられますので、この久能氏とは同族ではあるが明確に区別しておかないとまた災いが降りかかる可能性があると考え、「久野(くのう)」の表記に変更したのではないかと思われるからです。 
 そして時が経ち一族の中には「久能」の表記に戻す者がいたと考えれば、後に「久能」と「久野」が混用されていた事実を証明できそうです。

 また、季善は許されて後に道心となり徳善を名乗ったとあります。これは先祖とされる秦久能が宗像大社の中津宮が祀られている筑紫大島に一時住んでいたことや、その宗像の地の豪族であり『朝臣』の姓を受けた宗像氏の始祖、徳善の名前を知っていたので、この名前にあやかったのではと推測されます。宗像君徳善の娘である尼子娘は天武天皇の子である高市皇子の母です。

 さて、もう一つの譜文は兼之の箇所に書かれているものです。

  久能駿河国久能山之為城主廿有余于時弘安
  年中今川国氏欲押飲兼之卒然曰天地之化盛
  襄ハ運何惜小国一郡哉従古王公失其貴晋楚
  失其富何惜一郡哉願祖□開ノ守神永孫祖失
  名矣是天地之化也雖然養士治民数世之士民
  見予如父矛見士民如子ノ是矣為他士他民不
  忍見鳴呼時哉々々

 弘安年中(1278~1288年)という時代に注目すれば、弘安8年(1285年)に今川国氏(又は基氏)が将軍より遠江国引馬庄を賜ります。また『鎌倉遺文』二一五〇九では弘安年中に奥州平泉の中尊寺経蔵別当朝賢が遠江国住人、久野四郎兵衛入道の子の乙増丸に別当職を譲ることになっていたとの話が出てきますので、この乙増丸は今川氏と主従関係が結ばれたことにより駿河国から遠江国引馬庄に移って来た一族と考えれば、この譜文の内容とも矛盾しません。

 ただ、この遠江国の久野氏を掛川市域の原氏と姻戚関係にあった久野氏ではないかと考え易いのですが、遠江久野氏初代と考えられる久野宗俊は和田合戦(建暦3年、1213年)で敗れたか、あるいは累が及ぶのを恐れて遠江原谷の原氏を頼って落ち延びてきたと考えられ、その宗俊の後裔は本家である駿河久野家と縁が深い久能寺との関係が疎遠になり奥州との繋がりも切れていたと思われ、むしろ駿河の久野氏が久能寺との関係で深く奥州と結ばれていたと考えるのが妥当で、この譜文は久野氏が今川氏に臣従した経緯を示す唯一のものとして価値がありそうです。

 また、「天地之化」という言葉が譜文に出てきますが、この言葉の初見は中国の蘇軾(蘇東坡とも、 1037~1101年)の潮州韓文公廟碑であり、天地が万物を生育する偉大な働きという意味で、この譜文が当時書かれたものであるならば、相当短期間の内に日本に伝えられた言葉ではないでしょうか。

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