久野氏歴史年表(中世)
久野氏の発祥地の考察
久野氏(久能氏)の発祥地の候補を表にしてみました。
この表で確実な久野氏の発祥地は、駿河国久能郷と出雲国久野郷の二つだけということになります。
今のところ資料が見当たらず不明な箇所は「?」を付しています。
さらに、久野と書いて「きゅうの」と読む氏の出自も不明ですが、駿河には「きゅうのお」と読む地名があることから、駿河国久能郷を発祥とする久野氏の一族が名字の呼び名を変えて現在に至っているのではないかと推測されます。
岩国・久能氏と久野(ひさの)氏の関連は
岩国藩士時代に大田姓を名乗っていた久能氏は、幕末の頃藩に提出した系図(岩国徴古館所蔵)によれば、「源姓 紋所 丸之内ニ角重 清和源氏満政三代之孫佐渡源太重実六男六郎重近駿州ニ隠テ久野与市ト改 久能氏書候」とありますが、『尊卑分脈』では重近の箇所には官位などの記載はなく、子供の記載もありません。
“岩国・久能氏と久野(ひさの)氏の関連は” の続きを読む倭人の姓の考察
中国の検索オンライン百科事典である「百度百科」には中国の姓について比較的詳細な記載があるので、この内容などを手掛かりにして中国の正史である倭人伝等に登場する倭人の姓について考察します。
なお、名前のふりがなは講談社学術文庫の『倭国伝』によった。
(1)帥升(すいしょう)
『後漢書』倭伝に「安帝の永初元年(一〇七)、倭の国王帥升等、生口百六
十人を献じ、請見を願う。」として登場する帥升だが、帥姓は「百度百科」で
は、周王朝時代の軍には師帥、中軍帥、上軍帥、下軍帥、左軍帥、右軍帥、後
軍帥などの官名があり、これらの子孫が帥氏を称した。
遠江久野城は誰の城だったのか
遠江久野城は掛川市と森町の間に割り込むように南北に走る宇刈丘陵の南端、標高34㍍の袋井市域の台地に築かれ、城域中央の最高部が本郭で、東西35~85㍍、南北百㍍のほぼ三角形の曲輪です。
平成20年11月に開催されました「久野城まつり」で配布の久野城址公園整備計画の資料がもっとも城址の様子がよく分かる図面だと思いますので掲載しておきます。
岸和田系図
「岸和田藩久野家文書」は静岡県袋井市立袋井図書館に所蔵され、系図や系図の基になった資料なども集められており、遠江久野氏の初代久野城主であった宗隆以降の内容についてはほぼ正確であり、遠江久野氏を代表する系図であると思います。
この久野家の初期段階の系図では、「工藤遠江守時憲から宗隆までの約三〇〇年間の系譜中絶す。久野城主佐渡守宗隆に至りて久野を以て氏とす。是久野の祖ナリ。」と書かれていますので、久野宗隆以前の系譜は後で無理やり追加した感じは否めません。
加木屋系図(本家)その2
この加木屋系図で一番の謎は、33代栄邑の項に記されている宗秋、宗能、維宗、宗秀の存在です。
大阪府の岸和田系図では宗重は宗能の親で八右衛門宗明と同一人物ですし、宗明と宗秋は同一人物と考えられ、宗秀は宗能の子ですから、宗能の親と子を含めた3代がこの系図に書かれていることになります。さらに、岸和田系図では宗重は他の久野家へ養子にいったことになっていますので、養子先は駿河の久野家だった可能性は否定できません。
“加木屋系図(本家)その2” の続きを読む加木屋系図(本家)その1
加木屋系図(本家)は『東海市史』にもその冒頭部分の写真が掲載されていますが、全体は謎に包まれていました。
所蔵されている元庄屋家の久野様から見せていただく機会がありましたが、本家系図は34代宗政まで系線が書き込まれていない系図の為、ここでは系図そのものの掲載は冒頭部分のみとし、分家系図を参照しつつ、分家系図に書かれていることを織り交ぜながら話を進めます。
“加木屋系図(本家)その1” の続きを読む加木屋系図(分家)
加木屋系図(分家)は『東海市史資料編第二巻』に加木屋初代とされる久野栄邑からの系図が掲載されていますので一部分を本項の末尾に添付しておきましたが、全体は謎に包まれたままでした。系図を所蔵されている元庄屋家の近くにお住いの久野様から見せていただく機会がありましたので、ここに本家系図のみに出てくる人物を含めて、維永までの系図を載せました。
大筋では本家系図と同じ内容なのですが、分家系図の方が詳しい箇所や分家系図にしか出てこない人物も散見されますので、これらを中心に解説します。
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